あーあ、秀頼の撤退命令がなかったらなあ~。 | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

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どうも、すこっちです。!(^^)!

 

ここのところ、伊達政宗ネタの話から遠ざかっておりましたので久々に書きます。

 

今日も、すこっちと一緒に伊達政宗についての理解を深めていきましょう。

 

伊達政宗が48歳の年が1614年。この年に何が起きたかといえば、「大坂冬の陣」伊達軍は約1万8000人の部隊をわざわざ仙台から率いて、遠~い、遠~い大坂に向かった。

 

徳川軍は20万人の大軍で大坂城を包囲したんだけど、大河ドラマにもなった「真田丸」のハンパない存在感のお蔭で、大坂方はなんとか持ち応えたのでありますね~。伊達軍はというと、「こんな戦で消耗するなんて、意味わかんな~い」と思っていたのかどうかは分かりませんが、兵に被害が出ないようにのらりくらり戦法で積極的には戦わなかったみたいです。

 

そうこうしているうちに、家康の大筒攻撃にビビった淀殿が真田幸村の「ガンガン行こうぜ!」という作戦に耳を貸さず、安易な「いのちを大事に」作戦で和睦を進めることになってしまう。結果、例の内堀も外堀も埋められちゃうのね。(>_<) あーあ、これだから聞く耳を持たない上から目線のパワハラ上司はやっかいだっつーの。

 

まんまと消耗を最小限に抑えた伊達軍。だけど、けっきょく淀殿と秀頼が生きているうちは、この戦いにエンディングは訪れない。かくして翌年の1615年、5月「大坂夏の陣」が起きるんです。

 

政宗は約1万人の軍を率いて、進軍。誉田(こんだ)山古墳の近くで真田幸村の率いる約3,000人の軍と交戦状態になった。政宗は鉄砲隊で激しい銃弾を浴びせたが、そこは智将真田昌幸の息子、幸村ですわいな~。兵を地面に伏せさせ、ギリギリまで伊達軍を引きつけてから、一斉に反撃に転じた。

 

慌てた伊達軍は大混乱。なすすべなく、どんどん押し戻されてしまうのです。まさに「会心の一撃!」を喰らわせた真田軍。ここで伊達軍をいっきに「ボロ雑巾のようにしてしまおうぜー」って号令を掛けた幸村。

あーそれなのに、それなのにここでありえない出来事が起きてしまう。

 

な、なんとそれは 「秀頼からの撤退命令」 はあっ~???

 

あのねージュニア(秀頼のことね)今の状況分かってる? これこそまさに「ガンガン行こうぜ!」なのよ。

ここで伊達軍にとどめを刺しといたらね、アタシら歴史上ではかなりのヒーロー扱いなんだっつーの。ひょっとしたら大河ドラマ「独眼竜政宗」だって存在してないかもだよ。

 

えてして、現場の分からない上司ほど自分に都合のいい理論をゴリ押ししてしまうもの。(-_-;)

 

この時、あの有名な「関東勢百万と候え、男は一人もなく候」という言葉を発したんだとか。

(分かりやすく言いますと、お前らそんだけいんのに、俺たちを追撃しないなんて男じゃない!)

 

まあ、幸村の勇気ある戦いぶりに感心した政宗は敢えて追撃しなかったし、他の徳川軍にも追撃をさせなかったと、歴史上は伊達政宗びいきの書かれ方を.されてるんだけど、、、。

 

それにしても、歴史に「たられば」はないんだけど、「もし、秀頼の撤退命令が無かったら」、「もし、政宗が追撃をしていたら?」果たしてそのあとの展開はどのように変わっていたんでしょうかね。

 

もしも、伊達政宗が真田幸村に討ち取られていたら、、、。

 

もしも、伊達政宗が真田幸村を討ち取っていたら、、、、。

 

興味は尽きない、だから歴史は面白い!のかもね。!(^^)!