どうも、すこっちです。!(^^)!
伊達政宗の誕生日を現在の暦に直すと9月5日。ふと、気付けばもうすぐお誕生日なのです。
実はこの9月5日の誕生日の有名人がもう一人いる。サンドイッチマンの伊達ちゃんこと伊達みきおさんなのです。彼はれっきとした伊達家の家系図に載っている人でもあり、政宗と誕生日も一緒!
これ、意外と鉄板ネタなので覚えておきましょう。
さて、伊達政宗と言いますとよく話をされるのが、「遅れてきた戦国武将」というネーミング。もう少し早く生まれていたら、天下を獲れていたかも的な話がリップサービスでなされる場合がある。
でもね、よーく考えて見て欲しい。織田信長が48歳で本能寺の変に倒れたのが1582年(イチゴパンツだね)この時、政宗は若干15歳だ。つまり、彼の父である輝宗が信長と同世代ということになる。
じゃあ、輝宗の時代の奥州・陸奥国の状況ってどうだったのかと言うと、政宗のひいおじいちゃん(稙宗)とおじいちゃん(晴宗)が奥州を巻き込んだ6年にも及ぶ天文の乱という親子喧嘩をやってしまったために、せっかく拡大した伊達家の勢力が停滞していた時期。稙宗にしても晴宗にしても親子喧嘩を引き起こしてしまったけど、いわゆるハプスブルグ外交(ハプスブルグ家って知ってるかな?)で子どもをたくさん作って、他家に養子や嫁として送り込んで、戦わずして他家を乗っ取る的なやり口は二人とも一緒。
だから、輝宗の時にはちょっとした小競り合いの戦はあったけど、親戚相手にそうそう拳も降り上げられないような状況だったりする。仮にその頃に政宗が存在していたとしても、あまりにがんじがらめな状況で
思うようなことは出来なかったんじゃないかと思います。
逆に言うと、戦国乱世→全国統一の動きがあったから、存在感を認められてなお且つ教養もあったから、秀吉や家康と上手くやっていけたし、、仙台藩祖となっても徳川家からもVIP待遇だった。
伊達者、傾奇者的な派手なイメージが先に立つ政宗ですが、実はこれといった戦の武勇伝はそれほどでもなく、どちらかというと「機を見るに敏」が功を奏して存在感を増していったのが現実的な見方だったりするのです。
あとは、寿命ね。家康もそうだけど、天下を獲る若しくは影響力を長きに渡って持続するってことは、ビッグネームだけど短命じゃあ意味が無い分けね。まさに細く・長くじゃなくて、太く・長くなのです。
世が世なら戦で首を取られていたかもしれない政宗。そういう意味では、生まれるべくして生まれたということなのでは?と、いいうのが私の見立てです。!(^^)!