どうも、すこっちです。!(^^)!
6月に入りまして間もなく梅雨に入るんでしょうなあ~。でも、これから気温も上昇し、絶好の観光シーズンかもしれません。仙台へお越しの際は、是非仙台城跡へ足を運んでくださいね!
さて、仙台城をにお越しになったみなさんによく聞かれるフレーズと言えば、「仙台城に天守閣は無かったんですか?」とか「なぜ、天守閣を造らなかったんですか?」という質問。
まあ、みなさんお城と言いますと瓦葺の櫓の大きいやつがドーンと建っていて、いかにも「インスタ映え」しそうな建物を期待して来ちゃうので、そういう質問になるんだと思います。
この質問に対して、これまでのガイドとしての模範解答はこんな感じでした。
「政宗は徳川家康に敵意が無いことを示すため、天守閣を造らなかった。」
「天守閣を造るには膨大なお金が掛かるため、民衆への負担を考えて造らなかった。」
だいたい、この2つが定番でしたね、これを言っておけば聞いたお客さんも「あーなるほど。」
って納得して帰って頂いていたんです。(お金の件は、理由の一つではあるだろうけどね)
でも、アタシもガイドを始めて今年で4年目なんだけど、その間、いろんな本や講演、街歩きなどを通してたどり着いた最近の結論はちょっと違います。
すこっち流「仙台城に天守閣が無い本当の理由」
その1 「仙台城は上杉をけん制するために急造された戦う城だったから。」
たぶん、これが一番の理由だと思います。関ヶ原の戦いが行われたのが、慶長五年(1600)の9月でしょう、仙台城はこの年の12月24日に縄張りを始めて、翌年の正月明けには工事に入っている。そして、その年の5月には政宗が移り住み始めて、2年ぐらいでおおよそ完成している。
関ヶ原の戦いは終結したとはいえ、天下の情勢はまだまだ収まったとは言い難い。そんな時、なんつってもあの「越後の龍」と言われた上杉謙信公に鍛えられた軍ですよ!本当に「義」を振りかざして戦を始めたら、スカウターが表示する戦闘能力は計り知れないってわけ。
なので、政宗としては対上杉用に手っ取り早く、守り易くて攻めづらい堅牢な城が欲しかったのね。
だから、國分氏が出奔して廃城になってたけど、立地は申し分なかった千代城をリフォームしたの。
工期優先の戦闘用の城って意味合いが強かったから、たぶん最初っから天守閣なんて造る気は無かったんだと思われます。
その2 「水掘り巡らした平城でないと、城下からは見えないんだよ。」
これは、そもそも天守閣って何のために建てるのかってことですよね。ズバリ、「権威の象徴」でしょ。
「アタシは領主として、これだけ大きな天守閣を造れる財力と動員力があるんだよ!」ってことを領民に示すためのモニュメントとしての意味合いが強かった。だから、これを見た領民は「いやーおらほの殿様はこんな立派な天守閣ば造るんだから、すげーよな~。一揆なんて考えずに仕事に精を出すべ。」みたいな気持ちを浸透させるという一面もあったんじゃあないですかね。
そういう観点からすると、標高120メートルぐらいの仙台城のそのまた奥に天守閣を建てたところで、城下からはまず見えないですよね。合理主義的な考え方の政宗がそんな無駄なことをするとは思えない。
実を言うと、仙台城以外にも山形城や盛岡城、宇都宮城に萩城に鹿児島城などなど天守閣の無かった城は他にもいっぱいあるんです。姫路城を始めとする現存12天守が有名になったり、お城ブームに乗ってみなさんのお城に対する注目度が高まったんで、「伊達政宗」=「天主閣のある立派なお城」ってなイメージが膨らんでしまったのかもしれないです。
でもね、ホントの「お城の見どころ」っていうのは「建物」よりも「曲輪」とか「枡形」って言われる「縄張り」なんですよ。そうした意味では、ぜひ仙台市博物館の裏庭から「旧登城路」を登って行くのが醍醐味だとアタシは思うんですよね。
ここを是非、仙台城ガイドと一緒に歩いてみたら、楽しいこと間違いなしですってば。!(^^)!