まつりDE学び座「戊辰戦争ってなぁ~に?」に行ってきました。 | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
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どうも、すこっちです。!(^^)!

 

今年で34回目を迎える仙台・青葉まつりの週末、みなさんいかがお過ごしでしょうか?

 

私はと言いますと、メディアテークで開催されるまつりDE学び座「戊辰戦争ってなぁ~に?」に行って参りました。実を言うと、これがあるって分かったのが昨日のツイッター情報だったんです。(リツイートしてくれた方、ありがとう!)どうしようか迷ってたんだけど、支倉さんがコーディネーターだし、仙台城ガイドとしてせっかくのお勉強の機会を逃すのももったいないしね。(>_<)(けっこう幕末のこと聞かれるのです。)

 

仙台中心部はまさに「お祭モード」一色だったねえ。あちらにもこちらにも観光客らしき人、人、人。

外国人観光客もけっこういました。

 

そんでもって、私は一路メディアテークへと向かったんですが、会場についてまたまたビックリ!!

な、なんとイベント開始30分前だというのに、満席で座れない?

 

と思ったら、ちょうど私が到着して間もなく臨時の椅子を設営しだした。いやーアタシはツイてるー、っていうか持ってるね~。というわけで、なんとか椅子には座ることが出来ましたが、やっぱ青葉まつり効果なんでしょうか?

 

スタートしたまつりDEまなび座のテーマは「戊辰戦争」。薩長中心の新政府軍と旧幕府軍の戦いなんだけど、こと戊辰戦争に関しては「仙台藩」の存在感がとにかく薄い。冒頭で支倉さんもパワポで説明をしてくれたんだけど、最新の中学生の教科書には白虎隊で有名な会津のことは載っているんだけど、そもそも「仙台藩」という単語すら出て来ない。

 

そりゃあね、歴史とは「勝者の歴史」なわけですから、勝った方に都合のいい様に書かれてしまうもの。

おまけに会津藩や仙台藩は「賊軍」だからね、表舞台には出てくる要素が無い。「白虎隊」だって、たまたま飯沼貞吉が生き残ったから、後世に伝承されたわけでして、あのまま全員自害してたら歴史の1ページに載っていたのかどうか?

 

さて、あまり知られていない仙台藩の動向ですが、私なりに咀嚼した内容をざっくりですがお話します。

それでは、すこっち流「戊辰戦争 仙台藩ヴァージョン」のはじまり、はじまり~。

 

ペリーの黒船来航以来、尊王攘夷だの開国だのと喧々諤々の議論が進む中、徳川幕府は桜田門外の変以降、どんどん自分の首を絞めていき、まるで安倍内閣の支持率の如く、徳川幕府の支持率は急降下、初めはいきがっていたヤンキーみたいな長州藩がいつの間にか坂本龍馬というキューピットのおかげで薩摩とラブラブとなり、討幕への流れが現実味を帯びてきていました。

 

これに対して仙台藩はなんつっても幕府を支えてきた「夕飯」じゃなかった「雄藩」だったので、幕府に頼りにされていたんですね。仙台藩最後の第13代藩主だった慶邦公はことあるごとに言いたいことは言って来て、軸はけっしてぶれてはいなかったんだけど、あんまし幕府には相手にされなかった。なので、「あんたら勝手にしたらいいさ、俺は知ーらない。」ってなモードになりました。だから、仙台藩は完全な「討幕派」ではないけれど、幕府を支える積極的な「佐幕派」でもなかったのであります。

 

そうこうしているうちに、超インテリ15代将軍徳川慶喜公は先手を打って「大政奉還」しちゃいますが、新政府軍も「王政復古の大号令」でカウンターパンチを食らわします。ここで、にらみ合いが続きこう着状態となりますが、大河ドラマの主役西郷どんがまき餌を仕掛けます。(薩摩藩士が江戸で乱暴狼藉etc)その挑発にまんまと乗った庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちしちゃうのよね~。

 

結果、鳥羽・伏見の戦いが開戦となり、インテリ将軍慶喜公は部下がまだ戦っているというのに、置き去りにしてちゃっかり江戸に敵前逃亡しちゃいます。そして、自分は謹慎するんで勝君あとよろしくね、という行動に出る。

 

勝利を収めた新政府軍は上野戦争、北越戦争、そして仙台藩を含めた奥羽越列藩同盟との戦に突入することになるのです。

 

この時、仙台藩はどのような対応を取ったのかと言うと、話が長くなるので簡単に説明をしますと日和見主義、風見鶏主義ってやつね。新政府軍には会津を討てとけしかけられるのですが、会津は身内も同然。表向きは会津討伐に向かいますが、空砲を打ち合って「エアいくさ」をやって時間稼ぎをします。

 

ところが、長州藩の切り込み隊長の有名人「世良修三」が仙台藩にさらなるパワハラを仕掛けてきます。

「奥州のやつらは、みんな敵だから滅ぼしちゃいなさい。」とフリーザ的な発言をしたのにプッツンした瀬上主膳、姉歯武之進らが世良を急襲して、首ちょんぱをしちゃいます。(>_<)

 

もう、こうなったら後には引けない。奥羽越列藩同盟VS新政府軍のゴングが鳴ってしまうのです。

 

だけどね、仙台藩ってそもそも「大坂夏の陣」(1615年)以来、250年以上「戦争を知らない大人たち」だったのです。だから、この時がお館様も足軽もみ~んな「初陣」だったのね。一方、薩摩・長州は連戦・連戦で飛ぶ鳥を落とすような勢いだし、兵器も最新鋭だ!それに引き換え、仙台藩は火縄銃に毛の生えた程度の装備、これでは太刀打ちできるはずがないと、誰もが思った。

 

しかし、仙台藩はけっこう頑張った。細谷十太夫の「からす組」の活躍などで劣勢を押し戻したこともあったし、新政府軍の進軍を食い止めていたんだけど、ここで「雄藩」の憂いが出てしまう。庄内藩の本間家のような有力なスポンサーのいない、財政状態が真っ赤かの仙台藩。だけど、「雄藩」なので、他藩から頼られると断れない人の良さが出てしまい、秋田や白河、越後、会津等々いろんなところに援軍と称して派兵せざるを得なかった。結果、兵力は分散。(仙台城下にも兵力を温存しなきゃないしね)

 

劣勢になり、連敗に次ぐ連敗が続き、ついに米沢藩が1868年9月4日に降伏すると、10日に仙台藩も降伏。これにより、仙台藩は領土内での戦をせずに済んだが、石高を62万石から28万石に減らされ、領地もいいように分割されたのでした。

 

こんな感じで分割されてしまったのです。

 

と、まあ駆け足になってしまいましたが、戊辰戦争における仙台藩の足取りでした。

 

アタシの例え表現出しまくりの説明では分かりづらかったと言う方は、これを機会に図書館で本でも借りてきてあらためて調べてください。(まあ、ウィキペディアでも十分でしょうけど。)

 

あーそうそう、仙台藩には「額兵隊」と呼ばれる精鋭部隊がいたらしいですよ。(800名ほど)

一部(250名)は函館戦争にも行ったんだそうです。