伊達騒動の引き金って、実は政宗だったの? | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

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どうも、すこっちです。!(^^)!

 

今日はあいにくの雨、みなさんはどんな昼休みを過ごされましたでしょうか?休むところが無くって自分の車で休憩しているって人もいるでしょう。(アタシもその部類)車まで行くにも雨降ってるし、悩むところですけど、一日の中で1人の時間、目を休める時間って実は大事なんですよね。

 

さて、今日も伊達政宗にまつわるトリビア話を紐解いていくことにしましょうか。

 

慶長11年(1606)、江戸城の本丸、二の丸、三の丸が完成し、慶長12年には五層の天守閣が完成した。

もう、これは質素で謙虚な家康公でも、「えっへん、どうだい!こんな立派なお城見たことある?」と自慢をしたくなるものです。

 

ある時、家康は伊達政宗に、江戸城の総構図を見せて、得意げに聞いちゃいます。

 

「そちだったら、この城どう攻める?」

 

政宗は即座に答えた。

 

「それがしならば、此処から攻めまする。」と、江戸城の東北側に位置する「御茶水」の台地を指差し、「この高台に大砲を備え付け、江戸城に向けて砲弾を放たせます」と。恐らく家康は政宗の言葉にさぞ、肝を冷やしたことでしょう。

 

実際、御茶水から江戸城大手門までは、約1700メートルしかなく、大砲の射程距離だったのです。

 

さすがは、伊達政宗!単なるお飾りの城主ではなく、戦略家としても十分に秀でていたのです。

 

この一言がきっかになったのか、2代将軍秀忠は江戸城東北側の備えとして、「御茶水」の南側に位置する神田山を堀削し、外堀とする工事を行っているのです。

 

その外堀の工事はその後も継続され、万治3年(1660)に仙台藩は4代将軍徳川家綱により、小石川掘りの浚渫工事を命じられている。この時の仙台藩主って誰なの?はい、この時の仙台藩主があの「伊達騒動」の張本人(!?)とも言われる3代藩主「伊達綱宗」サンなんですね。

 

彼が「名君」だったのか「迷君」だったのかは、皆さんに下駄を預けるとしまして、ようはこの綱宗様が小石川堀の不審工事の見廻りに行くついでに始めた「吉原通い」にのめり込み、結果として「強制隠居」→「幼君誕生」→「専横政治」→「伊達騒動」につながったのではないかという説が有力なのです。

 

だとすると事の発端って実は、伊達政宗が徳川家康の内角をえぐるようなあの発言が引き金だったということも言えなくも無かったりするのです。

 

思えば、あの時家康の問い掛けに軍事センスを発揮して正直に答えてしまった政宗。まさかそれが、

直接ではないけれど、伊達家がおとり潰しになるほどの大問題に発展するとはさすがに思わなかったでしょうね。これだから、世の中って分からない。人生万事塞翁が馬とはよく言ったものです。

 

ちなみに、現在の水道橋から御茶ノ水に掛けて両岸絶壁がそそり立つような堀の名を、仙台藩が普請したことから、「仙台堀」と呼ばれているそうです。近くに行く機会があったら、ぜひご覧になって見てください。「おー、これが例のあれなんだね~。」と一人悦に入っちゃってください。!(^^)!

 

チェスターフィールドの名言に次のようなものがあります。

 

「出来れば人より賢くなりなさい。しかし、それを人に知らせてはいけない。」

 

本当の賢さって、なんなんだろう。(-_-;)