どうも、すこっちです。!(^^)!
最近、会社でやたらと炭酸水を飲んでいます。今の職場ってとにかく座っている時間が長いんですよ。
ずーっと机に座っているというのもなかなかストレスが溜まるもの。
炭酸水を飲むというのは、手っ取り早いストレス解消になるという医学的根拠もあるそうで、1日悶々と仕事のしっ放しはさすがにツライ。(>_<) なので、頼ってますね~炭酸水に。
あーそうそう、味の付いたものを飲み過ぎるのはNGらしいので、念のため。
さて、今日は誰もが注目する「森友問題」じゃなかった。歴史上のターニングポイントとなった、誰もが知っている世紀のクーデター「本能寺の変」にスポットを当ててみたいと思います。
本能寺の変については、やれ黒幕が誰だとか、明智光秀の怨恨説だとか、後ろ向きな文春ネタが多いんですけど、私すこっちとしては「実は、信長も信忠も実は助かったんじゃあないの?」という大胆仮説に基づいてお話をしていきたいと思うのです。
さて、皆さんが知っている本能寺の変。
明智軍1万3,000人に対して、完全に油断しまくりの信長さんはせいぜい80人。こりゃあ、どうみても勝ち目なんてあるわけが無いよね~、って誰だって思う。
まずは、信長の方からいってみましょうか。
確かに信長自身も最初は弓を使って応戦し、弦が切れたんで次は槍を持って奮戦したという。
でも、最後はもはやこれまでってことで本能寺に火を放ってその中で自害したということになっている。
信長の生きざまをまとめた書「信長公記」って知ってますか?太田牛一って人が常に信長の傍にいて
小まめに記してきたんだけど、さすがの太田牛一も「本能寺の変」の時だけは、そばにいなかった。
だから、「本能寺の変」という一番真実を知りたいところが、書きたくても書けなかった。
じゃあ、太田牛一はどうしたか?
実は、本能寺の変の時、信長のお付きの女達は逃がしてもらったというか、逃げられたんです。
方々からいろんな情報を集めて、牛一はそのお付の女性を付きとめて聞き取り調査をしたわけなの。
だから、「信長公記」にはちゃあんと本能寺の変の時の記載があるのです。
てぇことは、例えば信長が女装をして、そのお付の女性たちに隠れて一緒に脱走しようと思えば出来たのかもしれないんです。最終的には武士のメンツにこだわって、潔く切腹の道を選んだんでしょうけど。
「上様、ここは何としても生き延びて再起を図りましょう!」、「女の格好だろうがなんだろうが、そんなことどうでもいいんですよ、とにかく殿の命さえあれば、明智何て屁でもありませんよ。」ってなことを言ってくれる頼りになる側近でもいたら、局面は変わっていたかもしれない。
あの浅井長政に裏切られたときだって、必至に逃げて生き延びたんでしょうが!
そんな信長公なんだから、もうちょっと諦めずに頑張ってほしかったなあ~。(>_<)
次は息子の信忠ね。
本能寺を襲った明智の軍勢は、まるで詰将棋のように次は息子の信忠を急襲した。
この時、信忠は明智軍と交戦すべく妙覚寺から二条御所に立てこもった。
二条御所は信長が正親町天皇の皇太子、誠人親王のために作ったもので、この時城内にはその誠人親王が居たのです。なので、信忠は光秀にいったん休戦を申し出て、皇太子を逃がしているんです。
な、なんとこの時織田信長の異母弟であるあの有名な「織田有楽斎」(大河ドラマ真田丸では井上順がやってた人ね)はこの時、皇太子と一緒に二条御所を逃げ出しちゃうのです。
なにそれ~!織田家だったら、一緒に戦えよ~!どんだけ薄情なんだってばさー。
でも、考え方によっては、有楽斎の方が正しいのかもよ。彼は周りからはバッシングは受けたんだろうけど、江戸時代まで生きたんだからねえ。
さらに、さらにここからまた「武士のメンツ」が顔を出して雲行きが怪しくなるのです。
この時、織田長益という信長より13歳したの弟が信忠の側近でした。
彼は信忠に向かって、こう言った。
「信忠様、もはやこれまで。敵に討たれ亡骸を晒されてしまっては武門の恥です。」
「父上に殉じて腹を切るのがよろしいかと。」
あ~あ、言っちゃったよ長益君。おじさんのあなたからそれを言われたら、素直な信忠クンだよ。
そうして、信忠は何と言ったかというと、
「是非もなし…。私の首は敵に見つからないよう地中にでも隠してくれ。」
ほうらね、こうなっちゃったよ、やっぱり。信忠アーメンだよ。
ところが、である。この織田長益さんは、なんと混乱に乗じて近江方面に逃亡しちゃうのです。
(この人も江戸時代まで生きて、天寿を全うするのです。)
さらに、信忠の介錯人(首を切り落とした人ね)の鎌田新介も二条御所から脱出している。
もう、ここまで来るとどんだけそん時の明智の包囲網ってゆるゆるなの?って思うわけよ。
っていうか、なんなんだよ!大将の首をさっさと刎ねておいておいて、どいつもこいつもさっさと逃げちゃって生き延びているって、どういうこと?何が「武門の恥」なんだよ!
というわけで、みなさ~ん!私が何を伝えたかったか、よーく分かりましたね!
歴史に「たられば」はないけれど、明らかに逃げるチャンス!生き延びるチャンス!再起を図るチャンス!はあったとしか思えないのでありますよ。
そういう意味では、必死に逃げのびて「伊賀越え」を果たした徳川家康は立派だし、直言した本多忠勝にはあっぱれだよね。
「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマが「恋ダンス」と共にブレイクしましたが、なんでもこの「逃げるは恥だが役に立つ」というのは、ハンガリーのことわざで、「自分の戦う場所を選べ」という意味なんだだそうです。 つまり、自分の土俵で戦え、自分の得意分野で勝負しろって意味のようです。
あぁ~、信長さまと信忠クンにこのフレーズを届けてあげたかったなあ~。