蘆名氏が滅んだ本当の理由とは? | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

あなたも「すこっち」に酔いしれてみませんか?

どうも、すこっちです。!(^^)!

 

成人の日の休日(お仕事の方もいますよね)、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

 

私はと言うと、朝から早起きして泉にある「竜泉寺の湯」に行ってきましたよ~。

 

「この寒いのに朝風呂かい?」って思う人もいるかもしれませんが、なんでもカミさんの話によるとここは珍しい炭酸泉で体にとっても良いということなので、好奇心旺盛な私としては祝日のこのタイミングしか行く機会は無い!と思ってGO!しました。

 

ここって、普段は相当混むらしく、朝ならばと思って行ったのですけど(ちなみに朝の6時から)すでに駐車場がイイ感じで埋まっている!(たいした人気ですこと)初めて入った炭酸泉は温度もほどよく、結構長

~く入っていられましたね。(っていうか、皆さんなかなかあがらないんです)

 

興味を持たれた方は、ぜひ行ってみてください。

 

さて、今日は昨日に引き続き私が最近読んでいる歴史本で、「へえ」」ボタンを連打しまくったネタを皆さんに紹介をしたいと思います。

 

伊達政宗フリークの皆さんだったら、次の歴史的出来事は当然知っていますよね!

 

・1589年(天正17年)伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名義広を破って黒川城(後の鶴ヶ城)に攻め込んで、蘆名家を滅亡させる。

 

この歴史的事実、仙台城ガイドをしている私も何回も覚えて、語ってきた事実です。

まあ、伊達政宗が大躍進をして、イケイケ・ドンドンだった時期ですよね。

 

でも、もう一方の名門である蘆名氏がずいぶんとあっさりと破れてしまったのには、どこか肩すかしを喰らわされた感がずーっとしていたんですよ、私。(実際は寝返りとか、風向きによる形勢逆転とかいろいろあったんだろうけどね)

 

どうやらその謎がこの本を読んで解けたような気がします。

 

かいつまんで話をしますと、

 

蘆名氏にピリオドを打った義広君は当時14歳、佐竹家からの養子として蘆名家を継ぎました。

(蘆名盛隆の娘と結婚した形です。)

 

そんでもって、この義理のお父さんである「蘆名盛隆」。実は、この人が「蘆名滅亡」のキーマンだったのです。

 

彼が二十歳の頃、盛隆青年は、な、なんと超、超、超イケメンだったらしいのです。

 

佐竹義重との戦の最中に、なんと敵である義重が盛隆クンに一目惚れ!

(昔は、「衆道」と言って戦国武将は男性ともそういう風習があったのです)

 

あろうことか、戦場なのに義重さんは彼にラブレターを送ってしまうのです。(これが、本当の「戦場からのラブレター」)結果、合戦は中止となりました。(マジ卍だよ。)

 

合戦を止めるほどの美貌っていったい、、、。(-_-;)

 

しかし、その美貌があだとなるのです。

 

イケメンの彼は、義重さんのように声を掛けられるだけの待ち系タイプではなく、

自分から仕掛けていく「肉食系」でもあったのです。(男色系ですけどね)

 

好きな恋人(彼氏?彼女か?何て言えばいいの?)が出来るんだけど、

すぐに浮気をして、別な恋人(男ね)を作るのね。

 

そうすると、昔の恋人(男)のことを悪くこき下ろすような人だったのね。(いやだね~こういうタイプ)

 

当然、元恋人(男)は面白くないですよね~。

 

どんどん恋人を使い捨てしていった盛隆さん。

きっと、天罰が下るだろうと誰もが思っちゃいますわね~。

 

そんな、昼ドラさながらの泥沼ゲス衆道の愛憎劇の末、どうなったかというと、、、。

 

1584年10月6日、事件は起こりました。

 

な、なんと元恋人(しつこいようだけど、男ね)に斬り殺されてしまうのです。

 

あらら~、言わんこっちゃないよ。(-_-;)

 

その後、蘆名家はどうなったかと言うと、彼の息子である亀王丸(生後1ヶ月)が継いだのですが、

2年後に亡くなってしまいます。

 

さあー大変、ここで名門蘆名家が滅亡か!?

 

ここで、我らが伊達政宗も暗躍します。

 

「弟の小次郎を養子にどうですか?イケメンだし、頼りになりますよ!」

 

しかし、犬猿の仲だった伊達家にはなびかない蘆名家家臣たち。

 

そこで、手を差しのべたのが、これも因果なのかしら、なんと盛隆青年に一目惚れして戦場でラブレターを渡した、佐竹義重さん。彼の次男である善広を養子に迎えて蘆名家が存続したというわけです。

 

最終的な王手は、摺上原の戦いで伊達政宗と雌雄を決して滅んだんですけど、この盛隆さんの一件で

「マジ無理、もう蘆名家なんて付いていけねぇ~よ!!」と倒産寸前の会社に愛想が尽きたという家臣たちがプッツンしちゃったという感じがしてなりません。

 

つくづく、愛憎劇って恐ろしや~。そして、上に立つ人はそういうのやっぱ「程度問題」ですよ。

 

まあ、こと「衆道」に関しては政宗様も叩けばけっこう埃は出てきゃうんですけどね、、、。(-_-;)