お題を見て、「いや~さすがにそれはないんじゃない?」と思われた方も多いでしょう。
でも、ちょっと風向きが変われば実際にあったのかもしれない話なのです。
伊達家の始祖(初代)と言えば「伊達朝宗」さん。実はこの人
「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」で有名な源頼朝のいとこなのです。
朝宗のお母さんが頼朝の祖父の源為義の娘だったのです。
(朝宗のお母さんと頼朝のお父さんは兄弟なんです)
だから、母方つながりのいとこってことになりますね。
(なので、源氏の通名である「朝」を頂いたみたいです)
さらに、この朝宗の娘(大進の局)がいたんだけど、な、なんとあの源頼朝公の
側室になってしまう。(頼朝は政子が怖かったのに、色好みだったらしく)
大進の局は子供(男)まで生んでいる、名前を貞暁(じょうぎょう)と言った。
北条政子と言えば、ジェラシーで頼朝と関わりを持った女性の家に火をつけて
燃やしてしまったエピソードもあるくらいの恐妻家。
当然、生まれた貞暁君は政子の目をはばかって育てられ、幼くして出家し京都の
仁和寺に入った。
鎌倉幕府2代将軍頼家の時、1208年に朝宗の息子で伊達家2代目宗村が密かに
この仁和寺の貞暁君を「次期将軍」に就けようと謀ったが、執権北条義時に露見して
失敗。宗村は身を隠し、貞暁君も高野山に逃れた。
この時、もしこのクーデターが成功していたら3代将軍は伊達家の血を継ぐ者だった
のかもしれない。(今も昔も伊達家の血筋はギャンブラーが多いなあ、、。(-_-;)
これで、伊達家からの将軍デビューはついえたかに見えた。
ところが、である。この事件の10年後の1218年、あの尼将軍北条政子が突如として、
頼朝の妾の子である貞暁君に次の将軍になってくれるように懇願する。
すでに1204年には3代将軍は源実朝が継いでいたのだけれど、歌人としての方が
有名な実朝さんだったから、政子はイマイチと思っていたのかもしれないですね。
結局、貞暁君はそれをお受けすることなく丁重にお断りする。
ここで、2回目の将軍チャンスは消えた。
まあ、でも仮に将軍になったとしても北条政子と執権の北条氏の操り人形では
「名ばかり将軍」で、いずれ使い捨てにされたことでしょう。
その後、伊達家はクーデター未遂も赦されて本領の伊達領に戻ったそうです。
それから伊達政宗へと伊達家ヒストリーが続くことになるわけです。
今の仙台(宮城県)があるのは、伊達政宗ヒストリーのおかげ。
そういう意味では、寸止めで止めておいて正解!?
今となってみれば結果オーライだったのではないでしょうかね。!(^^)!