書評『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』 | ScorpionsUFOMSGのブログ

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書評『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』 
 
■『楽しいクラシック 名曲メドレー集』のような哲学書
人生の中で一度ぐらいは「”趣味の音楽はクラシックです”と言ってみたい」と思ったことはありませんか?
そんな「とりあえず聞いてみよう」レベルのときに、いきなり長尺のクラシック曲に挑戦しようという兵(つわもの)はごく少数でしょう。
 
日本で最も有名な交響曲であるベートーヴェンの交響曲『運命』も実は全部通して聴くと35分以上のも演奏時間になるそうです。
ましてやオペラになると3時間、4時間の演奏時間は当たり前だとのこと。
 
そんな時に役に立つのが著名なクラシック曲のサビだけをピックアップした『楽しいクラシック名曲集』のようなメドレー集ではないでしょうか。
 
そういう有名なサビのフレーズをまずは掻い摘んで聴いてみて「自分はベートーヴェンっぽいのが好きだな」とか「モーツァルトっぽいのが好きだな」「ワーグナーっぽいのが好きだな」と、大よその自分の好みの音楽性を掴んでから少しずつ聴き進める人が大多数ではないでしょうか。
 
そんなクラシックに対する「近寄りがたい」「分からない」「長い」という世間のネガティブなイメージを払拭するために手軽さ、親しみやすさを前面に打ち出したものとして、『楽しいクラシック 名曲メドレー集』が存在しているのだとすれば、本書はまさに哲学に対するネガティブイメージ「複雑」「難解」「近寄りがたい」を払拭するための『楽しいクラシック 名曲メドレー集』のような哲学書と言えます。
 
■ポップでライトでも実は骨太
正直にいうと私自身はクラシックも哲学も全く詳しくありません。
本書に出てくる哲学者たち、ニーチェも、キルケゴールも、ハイデガーも”名前ぐらいは聞いたことあるかも”レベルでした。誰がどういう主張をしていたかなどは言わずもがなです。
 
本書を手に取ろうと思ったのも、いつも参考にしている書評ブログでの評価が非常に高かったのが興味をもったきっかけで、普段ならば表紙のイラスト絵だけで腰が引けていたかもしれません笑。
思い返せば「もしドラ」の表紙のイラスト絵ですら躊躇したぐらいですから。
 
ページを開いてみると”児島アリサ”という女子高生が主人公で、「そんなことで?!」というような軽いノリで突然イケメンの青年の姿を借りたニーチェが現世に現れて主人公に向かって「お前を超人にしてやる」とか言い出す。さらには出てくる哲学者が皆、イケメン化されている始末。(キルケゴールに至ってはカリスマ読モという設定)
 
「さすがに失敗したかな~。でもいつも参考にしているブログ主さんが誉めているのだから、もう少し読み進めよう」と諦め半分の心境で読み進めるうちに、徐々にではありますが「哲学するとは何か」という骨太の内容になっていくではありませんか。
 
もしかしたら、単にニーチェやキルケゴールの言葉を所々で借用しているだけならば、「骨太」だなどとは感じなかったかもしれません。
ですが本書ではニーチェやキルケゴールといった哲学者との対話を経て、次第に主人公自身の言葉による「哲学するとは何か」という問いかけに対する独白が展開されていきます。
 
私は私以外の何物でもない……。よく耳にする流行りの曲のフレーズに似ていて聞き覚えのある、当たり前の事実が、やけに胸を突くのは、どうしてだろうか。
自分の人生は自分にしか歩めないというプレッシャーからなのか、それとも、家族という関係をいままでとは違う視点で眺めだしたからなのだろうか。
 
私はその間、どうすれば死ぬことを忘れないのかということを一人、考えていた。死ぬことを忘れないのは難しい。いま、こうしてハイデガーの話をうけて、死を意識したとしてもまたしばらくするとわすれてしまうのではないだろうか。
 
人の話を聞いたり、本を読むことが誰かの頭をつかって考える行為であるとするならば、私もいつまでもニーチェの考えを鵜呑みにするだけではいけないのだろう。
ニーチェがこう言ってたから、と完結させるのではなく、ニーチェの考えを材料に自分なりの考えを導き出すということが、考える、ということなのだろう。

 
そうして自分なりの”哲学”を得た主人公は、それを現実の自らの人間関係で実践してみようと決意します。
 
私は両親にあまり興味をもたれてないなと感じていたし、家族の絆みたいなものがあまりなくて。だから、私も家族に対して、自分を開示するのが怖いというか、どうせ歩み寄っても無駄だろうな、という気持ちがあったんです。
けれど、それこそ独りよがりですよね。家族に対して諦めをもつばっかじゃなくて、もっと本音で向き合ってみます。

ここまでくれば、哲学を知らない私から見ても立派に哲学していると感じられます。

■おまけ:主人公のモデル、コジマ・ワーグナーと『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のファンファーレ
主人公は「児島アリサ」という高校生なのですが、ニーチェたちは妙に”コジマ”という名前に反応します。
気になって調べてみると、”コジマ”というのは実在した人物で、名をコジマ・ワーグナーといい、”ワーグナー”の名が示す通り、かの大作曲家・リヒャルト・ワーグナーの奥様でいらした人物が主人公のモデルとなっているようです。
 
非常に魅力的な女性だったようで、ニーチェも密かに恋心を抱き、自著『この人を見よ』において「私が自分と同等の人間であると認めている唯一の場合が存在する。私はそれを深い感謝の念を籠めて告白する。コージマ・ワーグナー夫人は比類ないまでに最高の高貴な天性の持ち主である。」と称賛していたそうです。
 
そういう背景を知ると、主人公が「何か」を掴みだしたその時に聞こえてきた、部活のトランペットの音、力強いファンファーレの音色を送り届けてきた”その曲”は、ワーグナー作『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のファンファーレだったのかもしれないなどとイメージを膨らませることもできるのではないでしょうか。
 
ポップでライトなようで、哲学に留まらない、クラシックや当時の人々の人間関係にも興味を抱かせる、至る所に様々なマメ知識が散りばめられている良書だと思いました。
 
 
もしかしたら、私が気づかなかったことがもっとたくさん隠されているかもしれませんので、ぜひ本書を手に取って探されてみてはいかがでしょうか。

お勧めです。