父の残した田舎の日本庭園を自分流にしてみる | diary of trial and error (new title)

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その時に熱中していることを調べ書いております。(ブログは無収入で中立です)。無職の耐乏生活で書いており、直近の問題を文章で考えながらのブログですが、お役に立てば幸いです。うつ気味の時はやる気なく更新が滞ります。イイネいただければ元気いただけます。

6月になってしまいました、、2月下旬から3月、三角ホーでチガヤやヨモギなど色々の昨年から残ったのを掘り起こしておりましたが、4月になると色んな種類の雑草が一面に芽吹き、もう雑草取りを手作業でするような状態でなくなり、
4月からは雑草取りは目につくところをちょこっと取るだけ、ほとんど砂利で遊んでおります。

雑草といっても園芸種と同じく”植物”なのですが、
草本vs木本、草本でも地下茎で増えるの・球根で増えるの・種で増えるの、多年草vs一年草、

外来種vs在来種(東アジアのどこかの原産)、中々めんどいのですが・・。

4月からは、雑草をとることで園芸種が引き立つ程度にと、、

 

その代わり4月からずっと父の残した日本庭園を自分的にアレンジしているのです。

日本庭園は、割と広さがあって(ど田舎ですから、坪単価なんか首都圏の何十分の1とかなので・・)

他人に見せるための庭ではなく、庭を自分流にアレンジしながら、納得いかないこともあり、これは日曜画家の感じだなと・・。

 

最初の頃は、日本的・和の美に伝統的なものにとらわれ、自分の感性は意識せず伝統的な庭とはどんなの?と思ってみたり、、最初は、ここはこうだ、こうあるべきだとか理屈つけ「考え」で配置していて、心がなごまない、

近所の造園屋さんの師匠に「思ったようにしたらいい」ようにいわれたので、

最近は自分の感性でアレンジしていて、(しかし都内などのお金持ちの邸宅の日本庭園は造園屋さん任せだとすると、自分の心が満足できるよう毎日配置を換えるっというのはメッチャぜいたくなことだなと・・)

 

残されていた庭園には、おおまかに2種類の砂利が敷いてあって:
1つは築山(つきやま)から流れてくる普通の濃いグレーの角張ったただの砂利(駐車場に敷いてあるようなよく見かける砂利、コンクリに混ぜるような砕石)、、

2つは、これは1cm程度の(金魚鉢や熱帯魚の底に敷くような)白・黒・エンジ・緑の混ざった小さな玉砂利に更に2~3種類の小砂利が混ざっています(川砂利というのか)丸まった小砂利。。

 

1つめの濃いグレー・紺っぽい角のある砕石砂利は、どこでも見る普通の砕石なので、子供の頃から余り好きではなかったですが、3月4月から砕石1個1個をみると、色が違う(濃いグレー、白の色が多いの、濃いグレーに白のまだら、濡れると緑に見える明るい色の、数は少ないけれど赤っぽいの)とあり。色で分け配置してみました。

 

「見立てる」(なぞらえるの意味)という単語がありますが、

例えば、砂利を10cmほどの高さで1mほど繋げると、何か「波」の感じになる。それも「見立て」なのかな?とか・・

 

大波をつくって、海の白波にしようと、色々トライしましたが思ったような白波にならず・・・
一体「波」とはなんぞや?ということになって、どうも「波」とはある面に、盛り上がりが一列に長く連なってる。

昨日今日は、色んな砂利が混ざった所に、少し盛り上がりを作り上に白い砂利をのせ一列に並べてみています・・・(それも「見立て」の感性なのですが)

 

この作業というかやり方は、日曜画家と同じで、自己満足というより、自分の心を反映した自分の写し鏡であるから他人には見せない。

油絵は重ね塗りを筆で重ねて行くのに対して、砂利の造形は「同じ種類・似た砂利を選んで拾い積み上げる、並べる(線)、敷く(面)」のですが。

この砂利絵のやり方「見立て」というのは、自分にしか解らないし、心で描くので感性の抽象的な絵で、しかも立体的な風景でもあり。

一度つくって、また砂利をぐじゃぐじゃにして気分で作り直せるし、強風や雨で石が飛べば変わる。そしていつか気分で変えていく絵でもあり。

景観が晴れの日、雨の日でかわり。朝~夕で変わり。

月夜に、波に見立てた砂利の10cmの高さの波に月の光で影ができていて・・・ 月夜の海だなと・・

(数日前に夕方の薄明かりで大待宵草(オオマツヨイグサ)の花が光って見え、供に、あちこちに白い小砂利が光って見え・・)

 

日本の美というのは意外に抽象的なのかなと・・ 

浮世絵の北斎の歌舞伎役者の絵のデフォルメ、水墨画にしても幽玄の世界の抽象、

狩野永徳・風神雷神も抽象的といえば抽象的(後付けで理屈・解説はつくんでしょうが)、、

日本ってそう考えると面白い、日本庭園かなり抽象的かも?(左脳で考えず右脳で受け取る)。

 

一人で自分の心で抽象的立体的な景観をつくるというのは大変贅沢で、

さびれた田舎で土地が広いからできるので(坪単価が100万だ200万だそれ以上の)都会ではできないだろう(大きな有名ホテルなどは誰にでも見せる大きな立派な庭園)。

首都圏の賃貸にしても分譲にしてもマンションのベランダからだと”借景”に期待します・・

 

砂利で絵を書きながらいくつか悟ったことがあります。

波の白さは線ではない・・。(白波は瞬間である、動きである、動的である、)

遠目で見るから白い or 黒い、、

砂利だから点描。 点描だから2つの色の領域に面のハッキリした区別はない、
区別をキッチリして明瞭に分けるのは、どうも、しっくりこない。

連続的なもの、伸びやかに広がり感が好い感じ。(自然とは区別はないし、連続的なものかも)

白と黒が混ざって:白が多い場所から黒が多い場所へとグラデーションがあり、

直線はない、ゆるやかなカーブでなごむ。

 

白や黒の小さな玉砂利が混ざって敷いてある面と、濃いグレーの大き目の砕石が敷いてある面と、その境目とは、

小さな玉砂利の上に大きな角張った敷石が乗っかることもあり、

逆に砕石がまばらな所に多くの小さな玉砂利が侵入した形もありで・・  

境界・境界線というのがなく・・いずれ2種の砂利は混ざる。

 砂利の境界を見ながら、人類は戦争するのの原因は?と思う。

(歴史でも、ある出来事・事件で突然何かが変わると思って来ましたが、それは「線」ではなくて面に生じた「波」のようで。点描の連続的なグラデーションが形成しているような)

 

白が多い辺りに黒がまばらにあっても→遠目には白っぽい、、

人の集団の対立にしても、ある派閥の中には必ず考えの違う人も少し混ざってる・・たとえば保守だとか革新だとかいうが線引きはむずかしいもんだろうなと・・。