他人の価値を評価しようとするとき、その人と一蓮托生である場合が、一番望ましい。自分が苦境に陥ったり、或いは経済的に破綻してしまったりしたとする。そんな自分を見過ごす人よりは、そんな自分の窮地を理解してくれて、同情を寄せてくれる人が、さらには、自分に支援の手を差し伸べてくれる人が望ましい。さらに願わくば、過度の同情から彼自身も危険に晒されて、自分と共倒れになって窮境に立たされる様な人であってくれたら尚更よいと思う。

ところで、これと正反対のケースがある。他人の不幸や他人の経済的破綻を看過する場合、その人と道連れになって、共倒れになるのは御免こうむると言った場合である。あるいは精神的に破綻した場合でもよい。例えて言えば、統合失調症の患者を措置入院させる場合などがこれに当たると思う。ただし、こう言ったからと言って、何も統失患者の肩を持つつもりなどは全くない。措置入院ほど、その全責任が患者本人に属している入院の仕方もないのだから。

 

例えば、何か失言をしてしまってから、無意識に発言してしまいましたと言う人がいたら、そんな間違った弁解の仕方もないであろう。何故ならば、この人は無意識という言葉を利用しているだけだからである。無意識とはそういう便利な言葉の綾などではない。

人は無意識と親密にならなければいけない。「無意識」という言葉の通り本来、意識できない筈なのである。無意識を意識しようとする、無意識を解明しようとするのではなく、日常の生活の中で、無意識の存在を受け入れるのである。無意識の赴かせるところのままに随従するのである。ニーチェの所謂「運命愛」などという言葉も、こうした意識の閾下における機敏を言い表しているのであり、決して人生におけるあらゆる偶然事に無抵抗に屈従するべきだなどという意味ではない。

マウリツィオ・ポリーニが、3月23日に82歳で逝去した。

こうしてすぐれた音楽家たちが次々に亡くなったり引退したりすると、音楽はどんな方向へ向かっていくのだろうかなどと考える。

私などは、音楽を聴くことを唯一の楽しみにしている様な詰まらない人間である。そんな私でさえも、その生存が脅かされてしまうのではないかなどと、被害妄想に駆られるのである。