例えば、何か失言をしてしまってから、無意識に発言してしまいましたと言う人がいたら、そんな間違った弁解の仕方もないであろう。何故ならば、この人は無意識という言葉を利用しているだけだからである。無意識とはそういう便利な言葉の綾などではない。

人は無意識と親密にならなければいけない。「無意識」という言葉の通り本来、意識できない筈なのである。無意識を意識しようとする、無意識を解明しようとするのではなく、日常の生活の中で、無意識の存在を受け入れるのである。無意識の赴かせるところのままに随従するのである。ニーチェの所謂「運命愛」などという言葉も、こうした意識の閾下における機敏を言い表しているのであり、決して人生におけるあらゆる偶然事に無抵抗に屈従するべきだなどという意味ではない。