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空気を読まずに生きる

弁護士 趙 誠峰(第二東京弁護士会・Kollectアーツ法律事務所)の情報発信。

裁判員、刑事司法、ロースクールなどを事務所の意向に関係なく語る。https://kollect-arts.jp/

異議についてというマニアックな研修を受けてきた。
マニアックと言いつつ非常におもしろかったが。

一般の人からすると、裁判には「異議あり!!」がつきものらしい。
しかし、日本の裁判では異議がほとんど出ない「らしい」。

なぜ「らしい」か。
我が事務所にいる限り、異議に対する心理的抵抗が皆無になるから。
なんの抵抗もなく「異議あります」とか言っている。
今度民事の法廷でも異議言ってみようかな。

どうでもいい話だが、異議のスタイルとして
「異議ありーー!!!!」
「異議あり。」
「異議あります。」
「異議!」
「(右手をあげてから)異議あります。」

など様々あった。
どれがいいかはさておき、
異議は反射神経が重要なので、即座に反応できるように常に気を張っていなければならない。
だけど、思わず反応して裁判官に対して
「先生!」
とだけは言わないように気をつけよう。
今日依頼者と面会をしに立川拘置所に行ったが、その際のひとこま。

(面会の受付をする)
職員「携帯電話は待合室のロッカーに入れておいてくださいね」
(待合室で待つ)
(呼ばれる)
(接見室に入ろうとすると入口で質問される)
職員「携帯電話はお持ちですか?お持ちならロッカーに入れて下さい」
自分「形骸電話を持っているかどうかについてあなたに言う必要はないでしょ」
職員「そういうことでしたら、接見室に入れることはできません。上司に相談するのでお待ち下さい。」
(待合室で待つ)
(20分くらい経過)
(上司らしき人がくる)
上司「携帯電話を持っているか答えられないということですがどういうことでしょうか?」
自分「なぜ、弁護人が被告人と面会するときに、いちいち持ち物を拘置所職員に言わなければならないのか?そんな必要はないでしょ」
上司「そうは言われましても、うちの施設では面会室内で携帯電話を使用したり、カメラを使ったり、レコーダーで会話を録音することを禁止しています」
自分「だから、おたくがそういう運用をしていることは十分に理解しているけれど、弁護人が被告人に面会するときに、なぜ持ち物を教えなければならないのか?そんな必要はないでしょ」
上司「先生は、携帯電話をお持ちなんですか?」
自分「だから、そんなこと教える必要ないでしょ」
上司「じゃあ、携帯電話をロッカーに入れたんですか?」
自分「だから、なんでそんなこと教えないとダメなんですか」
自分「ということは、携帯電話を持っているか教えないと面会させないということですね?」
上司「面会させないというわけではありません。ただ、なぜ教えてくれないのかを聞いているだけです」
自分「だから・・・」
上司「ということは、先生は弁護士ならば面会室にたばこを持ち込んだり、食料を持ち込んだりすることについても職員に言う必要はないとおっしゃるのですか?」
自分「そんなこといちいち教える必要はないのではないですか。」
自分「施設として、例えば収容者が弁護人の携帯電話で外部と連絡を取られるのを防止しようとしていることはわかっていますよ。ただ、そんなことは弁護士に任せればいいんですよ。仮にそういうことで罪証隠滅行為が明らかになれば、弁護士が懲戒処分を受けるだけですよ。」
上司「わかりました。今回は面会していただきます。ただ・・・」
自分「ただ??」
上司「誓約書を書いてもらえますか?」
自分「何の誓約書ですか?」
上司「面会室内で携帯電話を使用しないという誓約書です」
自分「だから、そんなもの書く必要はないでしょ。私は書きません。」
上司「わかりました。」

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かなり省略したが、待ち時間含めて1時間くらいこんなやりとりをさせられた。
自分も暇ではないので、こんなことに1時間も時間を費やしたくない。
さらに言えば、接見室に携帯電話を持ち込むとかいう話しもはっきりいってどうでもいい。
別に接見室で携帯電話を使いたいわけでもないし。

ただ、この問題は、単に接見室に入る弁護人の持ち物チェックという話に留まらない。
この問題は、「弁護士の信頼を維持する」という大きな問題だと思う。

最近多くの場面で、弁護士の信頼が維持されていないような扱いを受けることが多いと思う。
やや専門的な話ではあるが、
・弁護人と身体拘束を受けている人の手紙のやりとりの話
・開示証拠の目的外利用の話
・取り調べDVDの開示の際の4条件の話
などなど。

そして、その最たるものが、接見の際の持ち物チェックなのだと思う。

刑事手続は弁護士に対する信頼のもとで成り立っているものが多いと思う。
逆に言えば、弁護士はその信頼を守る義務があるし、責任もある。
しかし、そのような責任のもとで、弁護士には自由が保障されなければならないと思う。
被疑者・被告人を守るためにはこの自由がなければならないし、法律はこれを予定している。
そして、弁護士がこの責任を果たせなかったときには、懲戒などの制裁を受けることになる。
これでバランスが取れている。

ところが、いま、多くの場面で、このようなバランスが崩れている。
弁護士の自由に対して、事前規制、後見的な規制が横行していて、しかもそれが正しいと思っている人があまりにも多い。

正直なところ、今日立川拘置所に行く時点で、立川拘置所の運用は知っていたし、今日は多少時間があったから、展開を全て予想していた。
そして、一つ一つの努力が弁護士の自由を守るために必要なことだと思って、あまりにも面倒くさいやりとりをした。

ところが、せっかく「上司」と話して、弁護人がいちいち持ち物を拘置所職員に教える必要がないことを教え、持ち物チェックなしの面会にこぎつけたにも関わらず、私が面会を終えて拘置所を後にする際、悲しくなるようなアナウンスが流れていた。


「弁護人のみなさま。立川拘置所では、接見室内に携帯電話を持ち込むことを禁止しています。ロッカーにお入れ下さい。」


めげることなく一つ一つ努力しなければ。
2ヶ月間もの間、放置してしまいました。
何の話題で再開しようか迷いましたが、死刑の話から再開することにしました。

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死刑の話については、実は私は高校生の時からすごく興味があり、よく小論文の話題にしていたことを思い出す。
当時、何の専門的な知識もなく、いわば直感的に感じていた死刑に対する違和感。
あれから10年以上経ち、弁護士を名乗るようになった今、当時とほとんど変わらない感覚、考えを持っている。
我ながら、よく考えていた高校生だったと思う。。。
当時、小論文が大得意で、いろいろ鉄板ネタを持っていた。その一つが死刑の話。
その他は、、、と書き始めると、思い切り脱線するのでやめておこう。

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今回の千葉法務大臣の死刑執行について、いろいろ意見がある。
しかし、今回の大臣の判断を正面切って、法律論で、理屈で非難することはできない。
「法に従って職務を執行した」に勝る理屈はないからだ。

何とか批判したい人たちが、
「国会議員の身分を失った人が死刑を執行するのはわかりにくい」(自民党川崎二郎国対委員長)
「民意を得られなかった人が法相の職務に携わるのはいかがなものか問われている時に、国民の理解は得られない。」(公明党山口那津男代表)
等とコメントしている。

これらのコメントが論理的に破綻していること、今回の死刑執行への批判として成り立っていないことはすぐにわかることだと思う。
千葉氏は国会議員の身分を失おうが、法務大臣であって、その職責に何の変化もない。
選挙で落選した人が閣僚であり続けることの是非については、まさに全く別の立法論の問題であって、ここでこの話題を出すことは全く持ってお門違いだと思う。

正論を貫き通すならば、国会議員だろうが落選しようが、法務大臣である限り、今の法律上、死刑の執行について裁量はなく、執行しなければならないものということになる。

上の2つのコメントが批判として体を成していないことはすぐにわかると思われる。



ただ、ここで私が言いたいことはそんなことではない。

なぜ、多くの人が死刑に違和感を持ち、また私自身も死刑に反対かというと、その根本的な部分は、
「そうはいっても命を奪っちゃいかん」
という感情だと思う。少なくとも、私が死刑に違和感を持ち、反対する根っこの理由はこれだと思う。
命を奪ってしまっては全てが終わってしまう。
法治国家において、法務大臣が法に従って死刑の執行を積極的に行わないことが、ある意味で正当化されるのは、やはり、死刑とは「命を奪う」という最大の国家権力行為だからだと思う。

今回の千葉法務大臣の死刑執行に対して、正面から異議を唱えることができるのは、この視点からのみだと思う。
つまり、死刑という極めて特殊な国家行為に対する違和感からすれば、それが法に則った行為だろうが何だろうが、「いかんもんはいかん」と異議を唱えることができると思う。
法治国家において法を超えるものがあるのかは難しいが、国家が国民の命を奪ってはならないという感覚は、法をこえるものとして批判の視点を与えるものだと思う。

そして、今回千葉法務大臣がやったことは、死刑についての国民的な議論を深めるために、自ら死刑執行の場に立会い、そして刑場などをマスコミ公開するなど勉強会を開くというものだった。

死刑執行の場に立ち会うことは、並大抵の覚悟でできることではなく、死刑廃止論者の法務大臣がこのような行動を取った意味は大きいと思う。
また、刑場について公開することは、当然必要なことだと思う。

仮に、今回の千葉大臣の決断によって、これらの話しが進むのだとしたら、今回の判断は英断だったと言えるのか。

これは絶対にNOだと言える。

今後、今回の判断でどんなに死刑制度が動いたとしても、その判断の裏では人2人の命が国家によって奪われている。

まさしく「そうはいっても命を奪っちゃいかん」である。
千葉大臣の行動は自己矛盾している。

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今回の死刑執行を政局のネタにして終わらせるのだとしたら、マスコミは最低、存在価値無しだと思う。
今回の千葉大臣の判断は絶対に間違いだが、少なくとも将来に活かす方向で議論をしなければならない。
裁判員裁判で検察官の求刑を上回る判決が出たとのこと。

このニュースについて、感情に流された判決だ、恐れていたことが現実になった、だから裁判員なんてやめとけばよかったんだなどというコメントがあふれている。それも弁護士がそのようなコメントをしている。

なぜ、そのように短絡的にしか考えられないのか。

この事件の弁護人はどのようなストーリーを立て、それをどのような方法で裁判員に伝えようとし、どこが裁判員に共感されなかったのか。

このようなことを一切検証しないまま、ただ結果のみをとらえて、裁判員は感情に流されやすいだの何だの言っている人こそ、感情に流されていると思う。

これまでは弁護士の法廷弁護活動が自白事件の量刑に影響を及ぼすことは少なかった。裁判員事件では、もろに結びつく。このことを自覚して、もっと個々の弁護士の法廷弁護活動に着目すべきだと思う。
もしも、自分が外国にいるときに刑事事件に巻き込まれてしまったら。
もしも、外国の刑務所に入れられる危険にさらされてしまったら。

日本で刑事事件に巻き込まれてしまった外国人はとても不自由で不安な思いにさせられている。
それは、日本人が同じ立場に立たされた時には感じることのない不自由さや不安な思いをさせられているということである。

日本でも他の多くの国と同じように、刑事事件に巻き込まれ、被疑者・被告人として身体拘束された場合、例え外国人であっても日本の弁護士資格を有する弁護人の援助を受ける権利が保障されている。
そしてその弁護人の援助を受ける権利は、拘束されている人がどこの国籍を有している人であろうと区別なく保障されるものと建前上はなされている。

ところが、実際は日本で刑事事件にまきこまれた外国人は極めて不自由で不安な思い、それも本来であれば感じる必要のない不安な思いや、本来では受忍させられる必要のない不自由な思いをさせられる。

身体拘束された人と弁護人とのコミュニケーションは全ての人、機関、国家からの秘密が守られる。
つまり捕まえられた人は、誰にもばれることなく弁護人とコミュニケーションを取れる。
これは憲法や法律にはっきりと書かれていることであるし、常識にあてはまることである。
秘密が守られるからこそ、全てを明らかにして弁護人に相談できる。この秘密が守られなけらば、捕まってしまった人は弁護人と自由にコミュニケーションを取れないし、そのことは弁護人から十分な援助を受けられないということにつながる。

ところが、日本の警察や法務省は弁護人と外国人被疑者とのコミュニケーションを全て把握しようとしている。
具体的には外国人被疑者と弁護人との間の手紙のやりとりを全て検閲している。
それもこっそり検閲しているのではなく、堂々と検閲している。
これは明白に違法だと思う。
日本語を使えない被疑者が、弁護人宛てに母国語で手紙を出そうとしても、警察はこれを堂々と検閲しているし、それどこではなく、その言語が少数言語であれば自分たちが検閲できないことを理由に、弁護人に手紙を出すこと自体を認めないという運用をしている。
これは、何をどう考えても違法である。
ところが、日本の警察はこれを堂々と行っている。

外国で刑事裁判にかけられた人にとって、その外国で行われる刑事裁判はとても不安で、とても緊張する瞬間だと思う。それは、自分が外国で刑事裁判にかけられ、その外国の刑務所に入れられるかもしれないことを想像すれば容易に想像できる。
その時、法廷で行われることについて、自由に、弁護人に相談できる環境が整えられなければならない。弁護人が隣に座っていてくれるからこそ、不安が少しでも取り除かれるものである。
それこそが弁護人の援助を受ける権利というものである。
そして、そのためには、母国語と日本語に長けている通訳の人もまた、弁護士の隣に座り、被告人の隣にいることが必要不可欠である。
通訳人がいなければ、たとえ弁護人が隣に座っていてもコミュニケーションをとることができない。信頼できる通訳人が隣にいて初めて、被告人は十分な弁護人の援助を受ける権利を享受できる。

ところが、日本の裁判所は刑事被告人が弁護人の隣に座ることを基本的に認めない。さらには、通訳人が弁護人の隣に座ることも認めない。

つまり、被告人と弁護人が法廷で自由にコミュニケーションをとる手段を奪い去っている。
このことを正面から是としているのが日本の裁判所である。

これは何をどう考えても違法である。

日本はどの外国とも接していない。
完全なる島国である。
このことがさまざまなところに暗い影を落としていると私は思う。
日本が世界から取り残される原因のかなりの部分がこの”島国”であるところにあるように思う。

いい加減、物理的には島国かもしれないが、もはや日本は他の国との関係なしには成り立たないことを自覚すべきだと思う。
そして、外国から来た人の気持ちを少しでも考えられる国になるべきだと思う。