裁判員裁判を考える(4)ー裁判員裁判がもたらした変化 | 空気を読まずに生きる

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弁護士 趙 誠峰(第二東京弁護士会・Kollectアーツ法律事務所)の情報発信。

裁判員、刑事司法、ロースクールなどを事務所の意向に関係なく語る。https://kollect-arts.jp/

今日、ひっそりと最高裁でとても重要な判決が出た。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20120907162323.pdf


被告人に前科がある場合に、その前科の存在を被告人が有罪か無罪かの判断に使えるか、使えるとしてもどのような場合に使えるかということが問題になった事件である。

この事件の被告人は10年以上前に11件の放火事件を起こして刑務所に入っていた。
そして、それらの放火事件のほぼすべてが、窃盗事件とセットになっていた。また、放火の方法としては室内に灯油をまいて火をつけるという方法だった。
その後、刑務所から出所した後、この人は窃盗事件を何件か起こした。

そして今回、ある家が放火で燃やされた。灯油をまいて火をつけられていた。そして家の中から誰かがカップラーメンを食べた痕跡があった。そしてそのカップラーメンからこの被告人のDNAが検出され、窃盗事件で逮捕された。
しかし彼は放火については事実を否認した。
そして、彼は放火と窃盗の罪で起訴された。

こういう事件である。
彼が放火をしたという証拠は何もない。検察官は、彼は以前に11件も放火事件を起こしており、そのほぼ全てが窃盗事件とセットになっており、しかも灯油をまいて火をつけていたという前科を、今回の放火事件の犯人が彼であることの証拠として請求した。

この事件の第1審は裁判員裁判で行われた。
河合健司裁判長はこの11件の放火の前科を、今回の事件の放火事件の犯人が彼であることの証拠として用いることはできないとして証拠請求を却下した。
そして、放火事件については無罪とした。

検察官は控訴し、東京高裁飯田喜信裁判長は、前科の放火の手口と今回の事件の放火の手口について「特徴的な類似性」があるからという理由で、前科を証拠として採用すべきだったとして無罪判決を破棄した。

それに対して被告人が最高裁判所に上告したのが今回の件だった。

ところで、なぜ前科の存在を、その事件の犯人が被告人であることの証拠として用いることが問題とされるか。
それは、前科の存在からその被告人は「悪い奴だ、犯罪をするような奴だ」という印象を持ち、だからこそ今回の事件の犯人もその被告人に違いないという思考経路を人間は取ってしまうからである。
これはどんな人間でも避けられない思考経路だと言われている。
どんなに経験豊富な裁判官であっても、初めて裁判に関わる裁判員であっても、誰にでも共通する。
人間はそういう生き物なのである。

逆に言うと、だからこそ検察官は前科を証拠として使いたがる。

そして今日、最高裁判所はこのように判断した。
「前科,特に同種前科については,被告人の犯罪性向といった実証的根拠の乏しい人格評価につながりやすく,そのために事実認定を誤らせるおそれがあり,・・・、前科証拠によって証明しようとする事実について,実証的根拠の乏しい人格評価によって誤った事実認定に至るおそれがないと認められるときに初めて証拠とすることが許されると解するべきである。本件のように,前科証拠を被告人と犯人の同一性証拠に用いる場合についていうならば,前科に係る犯罪事実が顕著な特徴を有し,かつ,それが起訴に係る犯罪事実と相当程度類似することから,それ自体で両者の犯人が同一であることを合理的に推認させるようなものであって,初めて証拠として採用できるものというべきである。」

この判決で重要な部分は、
前科,特に同種前科については,被告人の犯罪性向といった実証的根拠の乏しい人格評価につながりやすく,そのために事実認定を誤らせるおそれがあり、(中略)(前科は)それ自体で両者の犯人が同一であることを合理的に推認させるようなものであって,初めて証拠として採用できる
という部分である。

最高裁判所は、前科が持つ危険性を認識した上で、その前科の存在から、前の事件と今回の事件と犯人が同じ人物だと言えるくらい、手口等が類似しているものでなければならないとした。
そして、窃盗の腹いせに放火するとか、灯油で放火するというのはこれに当たらないとした。
こういう理由から高等裁判所の判決を破棄した。


ところで、今日のこの判決は裁判員裁判の影響が色濃い。
この事件の第一審は裁判員裁判で行われた。裁判員裁判だったからこそ、第一審の河合裁判長は前科を却下したのかもしれない。
これについて、ある人はこう言う。
「裁判員は前科に影響を受けやすいから、裁判員に不当な影響を与えないようした」と。

しかしこれは間違っている。
裁判員だろうが、裁判官だろうが、人間はみな前科に引っ張られるのである。
裁判官はこれを否定しようとする。自分たちは前科に引っ張られないけれど、裁判員は・・・と。
しかし、裁判官も人間である以上、このようなフィクションは成り立たない。

栃木力裁判官(東京地裁所長代行)はこう言っている。
「同種前科があることによって、それが犯罪事実の認定に影響してくるのではないかということですが、私の経験からすると、裁判員は以外ときちんと区別して考えていらっしゃるので、きちんと説明さえすれば、一般情状で前科があるということが事実認定に影響することはないと思います。」(論究ジュリスト第2号(有斐閣)28頁)

今日、最高裁判所はこの考え方は間違いであることをはっきりと示した。

人間はそんなにデキたものではない。
だからこそ証拠法がある。

裁判員裁判を迎えて、刑事裁判での証拠法の重要性が増している。
今回の「関連性」など、裁判官裁判では軽視されがちだった。
裁判員裁判をきっかけに脚光を浴びつつある。
この問題は決して裁判員裁判に限った話ではないが、裁判員裁判が契機になって議論が進むのであればそれはいいことだ。