裁判員に選ばれた市民は、有罪なのか無罪なのかを検察官と弁護人が全面的に争うものを刑事裁判だと思って、期待して裁判所に来るのではないだろうか。
ところが、裁判員に選ばれた多くの市民が担当する裁判は、有罪であることには争いがなく、被告人の懲役の年数を決める裁判であるのが現状だ。
この「有罪なのか無罪なのかを争う裁判」と、「有罪であることに争いがない裁判」とでは裁判員に求められる判断の対象が全く異なる。
有罪なのか無罪なのかを争う裁判であれば、裁判員の判断の対象は、被告人が有罪であることについて「法廷に出てきた証拠のみに基づいて常識に従って「間違いない」と言えるかどうか」である。
「間違いない」と言えるときは有罪となり、疑問が残るときには無罪とされる。
そしてここでいう「常識」こそが裁判員に期待されている健全な社会常識というものである。
つまり一市民である裁判員の健全な社会常識に照らして、「間違いない」と言えるのかどうか、疑問は残らないかが裁判の最大のポイントとなる。
そして、この判断が法律の専門家ではない、一市民の社会常識に従って判断されるところに裁判員裁判の最大の魅力がある。
一方、有罪であることに争うがない裁判では、結局のところ、被告人に何年の懲役刑をかすのがふさわしいのかを裁判員が判断することとなる。もちろんここにも裁判員の健全な社会常識というものが反映されるのだが、実は有罪か無罪かを判断する場面での社会常識と、量刑判断での社会常識は全く異質なものなのではないかと私は思う。
有罪なのか無罪なのかが争われる裁判では、検察官が作成した起訴状に書かれている事実が、法廷に出てきた証拠のみに基づいて、常識に照らして間違いないと言えるかどうかが判断の対象である。
ここには、法律の専門的な知識も要求されないし、裁判員は完全に自分自身の尺度で物事を判断することができるはずだし、そうでなければならない。
これまでの裁判だったらどうか?などということを考える必要はないし、裁判官だったらどう考えるのか、裁判官の判断のほうが、市民の判断よりも優れているなんてことも考える必要は全くない。
これまでの裁判などとは全く関係なく、純粋にその裁判で出てきた証拠のみに基づいて考えることとなる。
ところが、量刑の判断はそうはいかない。強姦致傷事件において、その被告人を何年刑務所に入れるべきかということを、全くフリーハンドで、純粋に、裁判員の健全な社会常識に基づいて判断することなど不可能である。そのようなことはわかるはずがない。人によって当然バラバラになるだろう。
全くバラバラになっていいというのも一つの考え方ではあるが、ある罪で人を何年刑務所に入れるかということは、そのようなことを人は社会の中で考えながら生きるわけではなく、そこに裁判員の社会常識を反映することはかなり無理がある。
では実際の法廷では何が行われているか?
それは、過去の類似事件では、だいたい懲役何年ですというデータを裁判員に提供して、その枠内で裁判員に当該事件の量刑を判断させている。
つまり、結局の所、これまでの裁判の結果に裁判員を縛っている。
裁判員は入れられた檻の中で、なんとなくこれくらいと判断しているのである。
あえて言おう。私は量刑判断など裁判員にさせる必要はないと思う。
これまでの裁判の結果の枠内で、被告人の刑の重さを判断させるためだけに、市民を裁判所に呼んで何日もかけて裁判をする必要などないと思う。
裁判員裁判を導入する最大のポイントは、事実認定に裁判員の健全な社会常識を反映させることではなかったか。
そうであれば、「有罪か無罪か」が争われる事件でこそ裁判員裁判を行うのが筋ではないか。
今は、死刑や無期懲役が科される可能性がある重い事件のみ裁判員裁判が行われているが、痴漢事件や万引き事件などもっと軽い事件で、被告人が無罪を主張するような全ての事件で裁判員裁判をやるのがいいと思う。
そのほうが参加する裁判員にとっても、より充実した裁判員期間を過ごせるのではないだろうか。