裁判員裁判が始まってから、裁判所や検察官が口を揃えて、何度も何度も発するキーワード。
それが「わかりやすい裁判」。
裁判員裁判時代よりも前の裁判は、法律家にしかわからない言語を用い、法律家にしか通用しないルールのもとで行われてきた刑事裁判が、一般市民である裁判員が裁判に加わることで、変化せざるを得なくなった。
裁判員にもわかる裁判、裁判員にも理解できる裁判を法律家が目指さなければならなくなった。
これは裁判員裁判をやる以上あたりまえの話だ。
話はここからである。
裁判員にわかりやすい裁判を目指すというのは、刑事裁判の当事者である検察官や弁護人(被告人)にとっては、自分たちの主張を受け入れてもらうためにやることである。
わかりやすい裁判は、自分たちのために目指すものであって、逆に言えば裁判員にわかりづらい裁判をやってしまった責任は自分たちが負うべきものだ。
ところが現実はそうではない。
裁判所は、裁判員"様"にわかりやすい裁判に参加してもらって、満足して帰ってもらおうと、検察官や弁護人にわかりやすい裁判を過度に求める。
当事者に対してそのように促すならまだいいだろう。それに止まらない。
裁判所は、わかりやすい裁判のために、検察官の立証に協力するよう弁護人に求めてくる。
協力を求めるならまだましかもしれない。
ひどいときには、わかりやすい裁判のために、検察官の立証に協力するよう弁護人を脅迫することさえある。
なんとなく、「わかりやすい裁判のために」と言われると、みんなで目指さなければならないような気になる。
しかしそれは大きな罠である。
弁護人は「わかりやすい裁判のために」検察官の立証に無駄な協力し、裁判官の脅迫に屈し、その結果、いつのまにか弁護人は検察官の有罪立証に協力していることとなる。
検察官のわかりやすい立証とは何か、それは他ならぬ、被告人を有罪にするためのわかりやすい立証である。
検察官がわかりやすい立証をできなければ、検察官の立証がわかりづらければ、それは弁護人にとっては願ってもない敵失である。その程度の立証しかできない責任は検察官が負うべきである。その結果、被告人が無罪になり、被告人の刑が軽くなれば、その責任は当然検察官が負うものである。
ところが、「わかりやすい裁判」という罠にはまり、いつしか検察官のわかりやすい有罪立証に弁護人が加担していることが決して少なくないのではないかと思う。
いつのまにか、法律家全員で協力して、被告人を有罪に導いていることがあるように思う。
裁判所がここまでして「わかりやすい裁判」を目指す背景の1つには、裁判所が裁判員をお客様扱いしていることがあるだろう。
裁判員"様"に満足して帰ってもらうために、被告人の立場など無視し、わかりやすい裁判を目指す。このような発想が裁判所にあるような気がしてならない。
裁判員は決して裁判官のお手伝いでもないし、お飾りでもない。
まぎれもない独立した1人の判断者である。
裁判所は裁判員をもっと尊重し、その判断を裁判員に丸ごと委ねるべきだ。
そうすれば、裁判所が執拗に「わかりやすい裁判」を目指すこともなくなるのではないだろうか。