私は今、とある裁判の原告になっています。
とある裁判とは・・・
私は、平成21年の7月に日本に帰化をしました。
ところが、平成21年8月30日の衆議院議員選挙に投票することができませんでした。
私は、日本国民で、20歳以上であったにも関わらず、国政選挙の選挙権を行使する機会が与えられませんでした。
その原因は、選挙に投票するためには、「選挙人名簿」というものに名前が載っていなければならず、選挙人名簿に名前が載るためには、3ヶ月間当該市町村に住民票がなければならないという公職選挙法の規定があったからです。
簡単に言えば、帰化をしても3ヶ月間は国政選挙について選挙権を行使することができないということです。
このことについて、現在、国を相手に国家賠償請求をしているということです。
この国では、裁判をするのに弁護士を雇わなくてもいいことになっています。
私も弁護士のはしくれなので、自分でこの裁判を進めることも形式的には可能です。
しかし実際のところはこの事件を自分一人でやることは不可能です。
それはなぜか。
この事件のように事実関係ははっきりと確定していて争いがなかったとしても、国を相手に法律の違憲を主張するということは並大抵のことではなく、マンパワーとして厳しいことももちろんあります。
しかし、そのことよりもむしろ、自分自身の裁判について、自分自身は代理人になれないということが大きいです。やはり自分自身の裁判については、客観的な視点を持つことはなかなか難しいということです。
裁判を進める上では、弁護士にはある程度客観的な視点から物事を見ることが必要です。
そういうわけで、私も弁護士を雇い(?)、最強弁護団を組んで裁判をしているところです。
そして当事者として裁判を進める中で、強く思うことが。
それは、事件があって、裁判を進める中で、裁判上争点になることは、必ずしも事件の当事者の想いが一番強い部分になるとは限らないということ。
少し噛み砕いて言うと、今回私が裁判をしようと思った一番の想いは、
「なんで帰化して日本人になったのに選挙に行けないの?」
「選挙に行きたいなら帰化しろとあれだけ言われたのに、帰化しても選挙に行けないのはおかしい」
というシンプルなものでした。
しかし、この想いを裁判という形にすると、今回投票できなかった原因となる「3ヶ月間住民票がある人」を選挙人名簿に載せるという公職選挙法の規定が違憲だということを主張することになります。
そして、3ヶ月という期間は長すぎるだろうとか、なんで住民票の要件なんかあるのか、とかいろいろ議論することになるわけです。
弁護士としての頭で考えれば、そのことはもちろん理解できるし、弁護士としてはそれが仕事となる。
しかし、当事者としての自分の率直な気持ちとしては、実は、3ヶ月が長すぎるとか、住民票の要件があるとかなんとかそういうことは実はどうでもいい。
今回の訴訟では、実は「新たに帰化して選挙権を得た」という立場の私と、「海外から戻ってきて住民登録をするのが遅くなり、選挙の直前3ヶ月以内に住民登録をしたため投票できなかった」という丸川珠代さん(元テレビ朝日アナウンサー)と、「選挙の2ヶ月前に北海道から沖縄に引っ越したため、沖縄で選挙はできずに北海道に投票しなれければならなかった」という山田太郎さん(非実在)とは同じ立場に置かれている。
正確に言えば、この3人が全く同じ立場にあるという前提での裁判ではないけれど、少なくとも「3ヶ月は長すぎる」などという議論においては、この3人は同じ扱いになる。
上で書いたこの裁判を起こそうと思った私の率直な気持ちからして、当事者としての自分の中では、正直なところ、山田太郎さんとか丸川珠代さんとは違うんだ、と言いたい気持ちもある。
なんとなく、自分がこの裁判で一番訴えたいところが法律上の争点にならないことについてのもどかしさがある。
そして、実はこのことは、今回の私自身の裁判に限ったことではないことを最近思う。
例えば、医療事件を例にとれば、医療行為の過程で家族を失った人たちの思いは、「なんであのときに検査をしてくれなかったの?」とか「なんで医者は謝らないの?」とかいうものであったりもする。
けれど、裁判をするとなると、例えば法律的な因果関係が争点になって、手術等の医療行為の救命可能性等が激しく争われることなどよく聞く話である。
そして、裁判のほとんどは、家族を失った当事者たちの想いとはあまり関係のない、医学的に知見の攻防に費やされ、当事者たちの想いを裁判所に伝える機会は少ししかないということになる。
裁判は、当事者たちの事件・紛争を解決するためにあるのであって、法律的な議論をするためにあるのではない。
ところが、裁判をどのように進めるのかということについてある方向に議論が進み、人によってはこれを裁判の精緻化などと言い、現代の裁判は異常なまでに構造的になっているような気がする。
そしてその「精緻化」された裁判の中で、裁判官は「精緻な」議論を要求し、法律家は「精緻な」議論に終始する。その結果、本来裁判の主役であるはずの当事者の想いが棚に上げられ、法律家のための裁判が繰り広げられるという、「反目的的」な裁判が繰り広げられることになる。
これまでのわずかながらの弁護士生活の中で、なんとなくこのことを感じることがあった。
そして、今回の自分自身の裁判において、当事者としての裁判に対する感覚から、このことをより強く感じた。
弁護士は少なくとも一度は自らが原告になって国賠請求などの裁判をするべきだと思う。
裁判官こそ、一度自らが原告になって訴訟をするべきだ。
裁判に携わることが仕事だからこそ、裁判を違った角度から見ることは重要だと思う。