2ヶ月間もの間、放置してしまいました。
何の話題で再開しようか迷いましたが、死刑の話から再開することにしました。
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死刑の話については、実は私は高校生の時からすごく興味があり、よく小論文の話題にしていたことを思い出す。
当時、何の専門的な知識もなく、いわば直感的に感じていた死刑に対する違和感。
あれから10年以上経ち、弁護士を名乗るようになった今、当時とほとんど変わらない感覚、考えを持っている。
我ながら、よく考えていた高校生だったと思う。。。
当時、小論文が大得意で、いろいろ鉄板ネタを持っていた。その一つが死刑の話。
その他は、、、と書き始めると、思い切り脱線するのでやめておこう。
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今回の千葉法務大臣の死刑執行について、いろいろ意見がある。
しかし、今回の大臣の判断を正面切って、法律論で、理屈で非難することはできない。
「法に従って職務を執行した」に勝る理屈はないからだ。
何とか批判したい人たちが、
「国会議員の身分を失った人が死刑を執行するのはわかりにくい」(自民党川崎二郎国対委員長)
「民意を得られなかった人が法相の職務に携わるのはいかがなものか問われている時に、国民の理解は得られない。」(公明党山口那津男代表)
等とコメントしている。
これらのコメントが論理的に破綻していること、今回の死刑執行への批判として成り立っていないことはすぐにわかることだと思う。
千葉氏は国会議員の身分を失おうが、法務大臣であって、その職責に何の変化もない。
選挙で落選した人が閣僚であり続けることの是非については、まさに全く別の立法論の問題であって、ここでこの話題を出すことは全く持ってお門違いだと思う。
正論を貫き通すならば、国会議員だろうが落選しようが、法務大臣である限り、今の法律上、死刑の執行について裁量はなく、執行しなければならないものということになる。
上の2つのコメントが批判として体を成していないことはすぐにわかると思われる。
ただ、ここで私が言いたいことはそんなことではない。
なぜ、多くの人が死刑に違和感を持ち、また私自身も死刑に反対かというと、その根本的な部分は、
「そうはいっても命を奪っちゃいかん」
という感情だと思う。少なくとも、私が死刑に違和感を持ち、反対する根っこの理由はこれだと思う。
命を奪ってしまっては全てが終わってしまう。
法治国家において、法務大臣が法に従って死刑の執行を積極的に行わないことが、ある意味で正当化されるのは、やはり、死刑とは「命を奪う」という最大の国家権力行為だからだと思う。
今回の千葉法務大臣の死刑執行に対して、正面から異議を唱えることができるのは、この視点からのみだと思う。
つまり、死刑という極めて特殊な国家行為に対する違和感からすれば、それが法に則った行為だろうが何だろうが、「いかんもんはいかん」と異議を唱えることができると思う。
法治国家において法を超えるものがあるのかは難しいが、国家が国民の命を奪ってはならないという感覚は、法をこえるものとして批判の視点を与えるものだと思う。
そして、今回千葉法務大臣がやったことは、死刑についての国民的な議論を深めるために、自ら死刑執行の場に立会い、そして刑場などをマスコミ公開するなど勉強会を開くというものだった。
死刑執行の場に立ち会うことは、並大抵の覚悟でできることではなく、死刑廃止論者の法務大臣がこのような行動を取った意味は大きいと思う。
また、刑場について公開することは、当然必要なことだと思う。
仮に、今回の千葉大臣の決断によって、これらの話しが進むのだとしたら、今回の判断は英断だったと言えるのか。
これは絶対にNOだと言える。
今後、今回の判断でどんなに死刑制度が動いたとしても、その判断の裏では人2人の命が国家によって奪われている。
まさしく「そうはいっても命を奪っちゃいかん」である。
千葉大臣の行動は自己矛盾している。
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今回の死刑執行を政局のネタにして終わらせるのだとしたら、マスコミは最低、存在価値無しだと思う。
今回の千葉大臣の判断は絶対に間違いだが、少なくとも将来に活かす方向で議論をしなければならない。