足利事件と報道 | 空気を読まずに生きる

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弁護士 趙 誠峰(第二東京弁護士会・Kollectアーツ法律事務所)の情報発信。

裁判員、刑事司法、ロースクールなどを事務所の意向に関係なく語る。https://kollect-arts.jp/

昨日から今日にかけてニュースやワイドショーはこぞって足利事件を取り上げている。
「自白の強要」、「取調べの可視化を」、「DNA鑑定のずさんさ」等々。

違和感を感じずにはいられない。
マスコミ各社はこの事件当時自らがどのような報道をしてきたのかを顧みることなく、それを棚に上げて、警察、検察の捜査手法を批判しているように思える。
警察、検察の捜査手法が非難されるべきことはこの事件に限ったことではない。こうやって大きなニュースになった時にだけ非難しても意味がない。普段は権力にベッタリくっつき、国家権力の過ちが明るみになったときにだけ権力の批判をして正義ぶることは、ある意味では卑怯である。捜査手法をはじめ、あらゆる事について常日頃からチェックをしなければならないし、マスコミにはその役割がある。

ところで、この事件当時、マスコミ各社はこの事件をどのような報道していたのだろうか。
すぐには調べることができないので、以下は想像に基づく記述になってしまうので、誤解があれば訂正すると予告しておこう。
おそらく、想像するに、当時のマスコミはDNAという科学的捜査を歓迎し、信頼し、ついに重大事件の犯人が捕まった、それも逮捕の当日から自白をしていることを大々的に報道したのではないだろうか。
少なくとも今のマスコミならば、警察からリークされる情報を大々的に報道している。

このような報道が、裁判官に無罪判決を書かせない力となって働いていることにマスコミは気づくべきである。
この冤罪事件の責任の一端はマスコミにもあると気づくべきである。

マスコミがどのような報道をしようとも、裁判官は裁判で出てきた証拠に基づいて判断するのだから、裁判の結果とは関係がないとの意見があれば、それは誤りである。
何度も何度もくどいほど書いていることだが、裁判官も人間である。マスコミが大々的に報道すればするほど、無罪判決を書くプレッシャーは高まる。これは当たり前のことである。
それほどマスコミの力は絶大である。情報化社会が進めば進むほどマスコミの力は増していく。

そのような絶大な力を、警察から発表される情報を鵜呑みにして、そのままに伝えることに利用することはある意味において国家権力の手先になっているに等しい。

ところで、この足利事件について、どのような証拠があったのか詳しく把握していないけれど、問題となったDNA鑑定と自白による有罪認定だった(と思われる)。
つまり犯人と被告人を結びつける客観的な証拠はDNA鑑定のみだったということである。

こういう構造の事件は腐るほどある。
最近で言えば、中央大学の教授が亡くなった事件についても、少なくとも報道されていることに限れば、犯人と被疑者を結びつける証拠はDNA鑑定くらいしか見あたらない。凶器もみつかっていない。
足利事件の当時と今とではDNA鑑定の精度が異なるので、同列に論じることはできないけれども、被疑者の供述内容を日々垂れ流しにし、それを鵜呑みにして報道する様子は過去の過ちと何ら変わっていないようにも見える。
この事件についても、マスコミの連日にわたる詳細すぎる報道によって世論が形成され、その世論の力が裁判官にプレッシャーとなって働くことを意識すべきである。

ただし、17年前の事件と決定的に異なるのは、裁判員の存在である。
裁判員がマスコミ報道にどのように影響されるかについては、また考えてみたいと思う。