「被害者感情を考慮せよ。」


死刑廃止を叫ぶ人々に対して憤る人々がいる。一体お前たちは被害者遺族の気持ちを考えた事があるのか!と。彼らの本当に言いたいことは分かっている。殺したいから殺してよい、そういう事だ。果たして、殺したいと思うことが人を殺してよい理由になるだろうか。

死刑賛成派の多くは、殺したいから殺して良い、という感情論に支配されている。私のこの言い分に対する死刑賛成派の反論は分かっている。犯罪者の殺人と死刑による殺人は条件が違う、と。先に殺したのは犯罪者の方であり、なんの罪もない無辜の人間を殺したのだ。殺されるのが善良な市民か凶悪犯であるかの違いーーなるほど、この違いは大きい。

しかしである。凶悪犯を殺してよい理由が、彼らがまさに凶悪犯だから、というのでは、冗語的で説明になっていない。


死刑賛成派、存置派は、自業自得だ、とも言うだろう。

これまたしかし、合理的な説明になっていない。自業自得とは、逃走中に電柱で頭を打って死んだとか、死刑が合法であるという前提で死刑となるようなことだからだ。自分の行いが招いた結果だから文句を言うな、同情の余地などない、……ということなのだ。故に、自業自得だから死刑は合法、というのでは、論点先取だ。

結局のところ、凶悪犯だから私は彼らを殺したい、だから殺してよい、というわけだ。「殺してやりたいと思ったら殺してよい。」これは正義にもとる思想である。


次のような言説もある。凶悪殺人と死刑は野球の表と裏のようなものだ、表で殺されたのだから、裏の攻撃もやらせろよ、と。これはもっともらしい意見だが、決定的な欠陥がある。野球の表の攻撃は合法だが、殺人は違法なのである。この違いは大きい。しかしこの《言説》はこう反論するだろう。合法とか違法とか全く関係ない。そんな事が問題なのではない、……表が既に終わっている時点で! フェアにやらせろと要求しているだけなのだ、と。

しかし誰が何と言おうと、殺人が違法であること、この事実は揺るがない。「表」たる不条理な殺人が過去のものになったとしても、それは違法行為である。その違法行為に対して、同じ目にあわせろ、というのは、やはり、「凶悪犯だから私は彼らを殺したい、だから殺してよい」というような、感情を根拠とした論理でしか説明できないのである。もっと悪いことに、この言説は、殺人は合法である、と最終的に結論づけるのである。この言説を信じる者の感覚では、殺人は野球の攻撃に喩えることができる程度に合法的だから。仮に彼らが、「合法かどうかは関係ないのだ」という論を展開したとしても、死刑が合法かどうかはどうでも良いなどと、彼ら自身が最終的に結論づけるとは思えないのである。

私が確信するところでは、凶悪犯は殺してしまえという思想を持つ者は、「殺すつもりはなかった」と言い訳するタイプの人間なのだ。それとも、自分は絶対に殺人を犯さないだろうという自信が彼らにあるのだろうか。


殺人だけの話ではない。ここ十数年でやっと厳しい取り締まりがなされるようになった飲酒運転は、今では世間から目の敵にされているが、こういった罪でさえ、自分は絶対にやらないという予言は何の意味もない。犯罪を犯さないための自覚には次のような三つの側面があるのだ。第一に、誰でもやる可能性がある、さすれば自分もやるかもしれないという恐れを抱く事、第二に、絶対にやらないという、予言ではなく強い意志を持つ事、そして第三に、良き市民たらんという社会人としての自覚である。


自分に甘い予言をする自称良識派と自称まともな人間はこう思っている。よっぽどの事があれば殺してもよい、と。それを一番よく説明するのが正当防衛だ、と彼らは思っているだろう。しかしこれは甘い認識である。正当防衛とは、権利である前に評価である。過去の偉大な哲学者達が何を言おうとも、正当防衛権は理念としてだけ存在する権利である。それを空虚な権利と言ってしまっては言い過ぎだが、正当防衛だから殴って良い、殺して良い、などという理屈は通らない。

人の殺傷は違法行為だ。これは間違いない。そして、急迫不正の侵害があるなど、いくつかの条件が全て揃えば、違法性を阻却されるのである。ということは、あなたの行為は正当防衛だ、と公的に宣言されたとしたら、それは、一度は罪を疑われたということだ。


閑話休題。被害者感情に関してであった。

被害者が加害者に対して怒りを抱くのは当然の反応だし、殺してやりたいと思うのも仕方のない事である。が、被害者感情には、加害者を殺してやりたいという以外にも実は別の面がある。

もしも警察が相手にしてくれないとしたらどうだろう。あるいは、加害者は逮捕されたが、デタラメな裁判が行われたとしたらどうだろう。「一応、裁判やりますね。はい、無罪。」被害者は社会から排除されているように感じるだろう。あるいは見離されたように感じるだろう。この苦痛、辛さを非当事者はどれほど想像できるだろうか。

また、こういう側面もある。被害者遺族はメディアの取材や報道によって大いに傷つき得るし、ニュースで散々取り上げられたのにも関わらず社会から見捨てられたことを悟ってからも傷つく。

自分の胸に手を当てて問うてほしい。被害者やその家族の肉体的、精神的、経済的苦しみを我々は本当に知っているだろうか? 恐らく当事者にしか分からない苦しみがあり、同一犯罪の被害者遺族であっても家族間で思いが違うかも知れないのだ。


死刑は被害者の近親者の怒りを、完全にかどうかはともかく、沈めるという効果はある。そして、TVニュースを見ている非当事者の溜飲を下げるという効果もある。それで世間は落ち着くわけだ。それで被害者の鎮魂が済む話かどうかは私には分からない。とまれ、刑が執行されれば遺族は納得する、という先入観がありはしなかったか。ここで我々はドラマ水戸黄門にあったような時代劇の登場人物を想起できる。仇討ちを生きる目的とし、仇討ちを果たした武家の人間がこれでよしと自身を納得させたように。彼らが新たな人生を笑顔でスタートさせたように。勿論、悲痛のうちに納得する遺族も現実にいるだろう。失ってしまった人間は戻らない、納得するしかないではないか、と。しかし、社会的な救済が存在するかどうかとは別の事柄なのだ。

死刑に限らず、刑の執行が被害者のためにある、という世間の先入観ないし暗黙の了解のために、救済が発展しなかったとしたら?そして、刑の執行は被害者のためにあるという考えが実質的公的には欠けているので、刑罰に関しては加害者側の権利だけが規定される。その結果、加害者の権利だけが保護されるということが起こる。被害者やその家族だけが、肉体的、精神的、経済的な負担を強いられ、世間はこの現実を素通りするのだ。当たり前だ。誰にでも自分の生活があり、自分の日常に帰って行くのだ。被害者やその家族は理不尽を感じながら日々の生活に追われる。その中で、被害者やその家族などの当事者が自ら被害者救済のための団体を立ち上げた事を、国民の何割が知っているだろうか。ニュースで事件に接した時、驚愕と憎悪だけを共有して他人の立場に立ったつもりでいる非当事者のうち、被害者の実生活の貧しさに共感できる人間は極めて少ない。

日本国内の非当事者は、社会的に救われねばならない被害者たちに対して、責任を感じるべきだろうか。それとも我々は、そういった重い問題を政府や政治家のせいにして、政治というものを行政サービスの問題に還元すべきだろうか。少なくとも、被害者遺族に「本当にかわいそうなのは被害者本人だ。遺族はそんなに金が欲しいのか」と訳知り顔で心無い言葉をぶつけるべきではないだろう。

我々は被害者の権利と被害者救済の充実について考えるべきであり、刑罰の意味、制裁の意味をもう一度問うてみる必要があるだろう。