<娘Bは10歳の時にフレディからサン紙のスクープ報道

 の詳細な説明を受けて、長い時間話し合いをした>

 

1977年、

バーでフレディと知り合うとポール・プレンターは、

フレディの個人的専属マネージャーを務めた。

 

ポール・プレンターの暴露により報じられた

1987年サン紙が報じたNEWS記事

フレディの恋人二人がAidsで死亡した



個人的専属マネージャーだったポール・プレンターは

1986年、フレディから解雇された。その時、

ポール・プレンタ―もまたAidsに感染しており

1991年8月に死亡した。

1987年、フレディのHIV陽性が判明すると
サン紙は、ポール・プレンターからのスクープ、

フレディの恋人二人がAidsで亡くなったという

暴露記事を掲載した。

また、1987年5月フレディの元マネージャーである
ポール・プレンターから提供された情報で
フレディが何百人もの男と寝たという内容を

サン紙に売り、特定の愛人の名前を挙げて、

彼らの写真を新聞各紙に掲載した。

元マネージャーの暴露により、フレディの元恋人たちが
Aidsで亡くなったことなどが明らかになったが、
フレディから感染して友人達が死んでいくのを知り、
フレディはクレージングの日々が終わったのを悟った。

 

娘Bが10歳の時その報道を目にしてショックを受けたが、

娘がその新聞記事を読んだことを話すと、フレディは

娘に時間をかけて話をした。話が終わる頃には、

娘の心は、その大部分の話を理解して受け入れた。


その後、Aidsが判明してからのフレディは、

殆んど全ての人との関係を断ち切り、

一人で過ごすことが増えたが、
精力的に音楽活動に専念をした。
バンドで最後に出したアルバムは『Inuendo』

死んだら、神様のことはあまり考えない
私のことを覚えていてくれるだろうか?
あまり考えていない。
それは彼ら次第だ。私が死んだら
誰が気にするだろうか?
私は気にしない

          ヒマワリヒマワリヒマワリヒマワリヒマワリ

1990年

娘Bがフレディの死期が近いことを知った日について

1990年から過ごしたモントルー 

アパート最上階左側部屋でフレディは静かに過ごした。

 

<娘の回想>
1990年の春の日、面と向かって「重病だ」と

告げられたことを、決して忘れないだろう。
彼の声も、表情も決して忘れないだろう。
彼が死期が近いと告げた時、彼は今まで

見たことのない奇妙な表情をしていた。

フレディが人生の終わりに近づいたころに

購入したアパートだった。

娘Bに重病を告げたのも、この場所だった。
亡くなる約3週間前に、二人が最後に会ったのも

ここだった。

<娘Bの言葉>
私は父の声を取り戻すために心を捧げました
彼は私が今まで知り合った人の中でも
最も素晴らしく、思いやりがあり、思慮深く
愛情深い人であり、彼の娘であることは

名誉であり歓びです。

 

娘Bさんが、最もこだわりをもって父親の名誉を

回復したかった部分は、ゲイではなくバイセクシャル

だったというところではないのかなと思った。

 

そこを否定しなければ、Bさんの誕生そのものが

否定されているような気分になるだろうから。

 

母とフレディが愛し合って、Bさんが誕生し

この世に生を受けたことには意味があるという

主張をしたかったのではないのかなと思った。
 

 

娘Bとレスリー・アン・ジョーンズの語る話について

英国のファンやフレディの関係者の間では、

証拠がないのでまったく信じることができないと

言われている。