影響が大きかった父の
育った環境を書いています
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《マイストーリー》 1
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《マイストーリー》 2
プロローグ 母編
母は、まだ存命なので、了解を得ていない身としてはあまり書けないのですが(笑)
大阪市内の履物店を営む実家で(多分)気楽に
育った母。
戦中は祖母の実家のある岸和田(大阪府の真ん中あたりの普通〜の市です。岸和田祭で少しは有名です。)に疎開し、田舎の山や川での遊びは楽しかったとよく話しています。
高校卒業まで、気楽〜〜に(多分)生活していた母は、花嫁修行と称する洋裁学校に通い始め、親の勧めるまま、父とお見合いをし、23歳と21歳の若さで結婚しました。
新婚旅行は、当時人気だった箱根。楽しそうな二人の写真を見た記憶があります。
2月に結婚式、11月に私が生まれたので、まさにハネムーンベイビーの私です。可愛がって可愛がって育てられました。
お見合いで母が父を選んだ理由は、父が銀行員であったから。
商売人の元で育った母ですから、商売人の大変さはよくわかっていたし、またお商売を手伝わないといけないことも嫌だったので、商売人の元へは嫁ぎたくなかったと、ずっと話していました。
銀行員ならお気楽に奥様として生活できると、考えたらしいです。本当、今時の若者だったのですね。母は。
車の免許を取ったばかりの母は、産後間もない私を車に乗せ、それも衣装行李に入れ、岸和田から大阪市内の実家まで、祖父にお小遣いをもらいに行ったとのこと。
何と危険なことをするのかと、祖父から大目玉をくらったらしいのですよ🤣こんなお気楽かつ大胆な母でした。
父の一ヶ月のお給料を1日分だと勘違いし、全部使い切ってしまって、父に呆れられたとも聞きました。
それくらい経済観念の違う二人でした。
反対に小さい頃から苦労をした父は、母のそんなところが信じられないようでしたが、そんな父も母の思惑を大胆に裏切るのですが、それはまた後々お話しますね。
そんな生まれも育ちも全く違う、若い若い両親のもとで、私はどんなふうに育ったのでしょうか。
このお着物も羽織も、わたしがもらってまだあるのですが、何しろ母は小柄。
お着物として着るには難あり。
仕立て直してもギリギリなので、寝かせたきりになってるものがほとんどです。
明日からは、私の昔を思い出せる限り書いていきたいと思います。
よろしければ時々、お付き合い下さいね。
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最後までご覧いただきありがとうございます
「SBMしぐさ美人メソッド」公認講師
大阪紬 稲田康子
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