過去記事より掲載しています
① 私はこうして祈る (貧乏は欠乏の想念)
- テーマ:
- 神想観(瞑想)
◯ 人と時と場合に応じた祈り
はしがき
祈りを神に対する懇請(こんせい)や切願(せつがん)や泣きつきのように考えている人もあるが、それは迷信である。
神はセンチメンタルな人間のように、泣きつく者や、賽銭(さいせん)を納める者だけに御利益を与え、泣きつかぬ者や儀牲を供(そな)えぬ者には利益を与えぬというような、差別待遇を与える依怙(えこ)ひいきな存在ではないのである。
神は「宇宙を貫く法則」であるから、法則にむかって拝んで見ても泣きついて見ても法則が変るということはない。
だから「祈る」ことを懇請によって神の感情を動かすことだと考えてはならないのである。
それでは祈りというものは不要ではないかと考える人があるかも知れぬが、祈りは神との「人格的交り」として、神と人との魂のー体感を得るために必要なのである。
神は「宇宙を貫(つらぬ)く法則」であると同時に「生ける大生命としての人格」の面もある。生けるいのちある者が、人格と人格との交りによって、「自」と「他」とのー体感を得ることが愛である。
私たちは祈りによって神と人との人格的接触を得、「愛」を自覚することができるのである。
すなわら神に祈ることによって、「外なる普遍的な神」と自己の「内なる神性」とのー体感が喚び起される。それによって自己の「内なる神」が喚(よ)び覚(さま)され、自己から無限の力がでてくるのである。
祈りは懇請によって神の感情や意志を動かす目的に行なうべきではなく、自分の「内在の神」を喚び出しその喚び出されたる自己の霊の波長が宇宙普遍の愛の祝福の霊波に波長を合わし得て、その祝福を受けることになるのである。
このように、祈りは、神に泣きつくためではなく、神の祝福の霊波に自分の、心の波長をー致さす一つの方法であるから、一面には誠心(まごころ)が必要であるが、他の一面には同調の技術が必要である。
如何なる場合に如何なる時に如何なる言葉を念じたなら、最も自己の内部神性が発現するか、そして宇宙普遍の愛の祝福を感受しやすいような心境になれるだろか。
本書は栗原得二君が、私のほとんど全部の著書を読破している際、こんな事件のときにはどう祈ったらよいか、とっさに考えつかないで思い惑う(まど)う人のために、祈りに関する部分だけを書き抜いて、その時、その場、その人に必要な祈りの文句や、心得を、とっさに知り得るような目次をつけて下さったのである。
一応全部読んでおかれて、大体、どんな分類の仕方で集録せられているかを覚えておかれた上で、常に携帯し、事に応じ時に応じ場所に応じてその部を比見し、そこに示されたる通りに祈られると必ず効果があると思う。常に携帯してもいたまない表紙にし、誰にも読みやすいように当用漢宇と新カナに書き直しました。
著者識す
谷口雅春 著 「私はこうして祈る」より
* 明日の祈りのブログに書きますが、貧乏は欠乏の想念と書いてありました。努力の欠乏、誠実の欠乏、サービスの欠乏、愛念の欠乏、持続力の欠乏、寛容精神の欠乏、与える心の欠乏、等の具象化であると!長年やっていますと、だいたいわかりますので、祈りの本なんて読まないですね!笑!先日掲載すると書きましたので何十年ぶりかで開いたら最初にこれが書いてありました。私の心境は「もっと早く言ってよう!」笑!
一度は読んで?いなかった?買ってペラペラめくっただけだったかもしれませんでしたね。ほとんど読んでいますが、祈りという事と、小さい本だったので、馬鹿にしてたかもしれませんね!医学博士の徳久先生は、雅春先生はどんな重要な事も一行さらと書かれるだけです。注意して読まないと見逃しますよとよく話しておられました!笑!教える事は教わる事、私の方が教わりました。ありがとうございます!私は努力という言葉が嫌いでしたね。でも人はよく頑張るねとは言ってくれていましたが!愛念?愛はありましたが?笑!与える心?これもありますが、?笑
話し変わりますが、欠乏で思い出しましたが、商売が上手くいかないとかいう時、生命の實相読んで色々実践するがもう一つパッとしない人は、むかえ水が必要だと書いてありましたね。井戸水を長い事使っていないと水が上がってこないでしょう!その時はむかえ水すると水が上がって来るように、私達も長い事欠乏していると中々繁栄しません、その時むかえ水をする必要がありますと!のどもと過ぎると何とやらで、だんだん疎かになりますね!笑!それでも私は普通の人よりはやっていると自負していますが!笑!