過去記事より掲載しています
 
 
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◎ 私はこうして祈る(相手を赦すためには)

 

 

 

○愛と寛容の精神を養うには

 

 

 

貧乏は、「欠之」の想念、「努力」の欠乏、「誠実」の欠乏、「サービス」の欠乏、「愛念」の欠乏、「持続力」の欠乏、「寛容精神」の欠乏、「与える心」の欠乏等の具象化であるということができる。特に寛容精神の欠乏は、甚(はなは)だしく他に対して批評的になるために、他から愛されることなく、いかに自己が賢明でも、実力も、努力も、誠実もありながら世に容(い)れられないで失敗してしまう原因になるのである。だから、次のように念じて愛と竟容の精神を養うように私はつとめている。

 

 

「吾は神とー体である。神が吾を赦(ゆる)し愛し給うが如く、吾もすベての人を赦し愛するのである。神の無限の愛と赦しが、わがうちに満ちていてすベての人を赦し愛したまうのである」

 

 

 

 

○「悪を、悪意を、悪人を消すには」

 

 

断乎(だんこ)たる決意をもって悪を、悪意を、悪人の存在することを否定すべし。心の力によって悪念を追い出すべし。その祈りの言葉は―

 

 

「悪よ、汝はあるが如く見えるけれども存在しないのである。汝は本当は善であるから、必ず善の実相をあらわすことになるのである。

 

 

Aよ、汝は悪意をもって、私をいじめるためにあらわれたように見えているけれども、実際は汝は美人であり、神の子であり、愛そのものであるから、けっして私を苦しめることはないのである」

 

 

 

 

 

○ 悪を消し劣等感をなくすには

 

 

すべての悪の存在と、悪が力をもつという考えを否定すべし。漠然と「悪は存在しない」と思って、ぼんやりとして手を施すすベもなく、悪の跳梁(ちょうりょう)まかせよというのではないのである。

 

 

「悪は本来存在しないから無力である。自分は存在しないものを恐れないのである。自分は善の一元を信じ、善のみ存在することを信ずる。善の前には悪はおのずから消えてしまうのである。われは神と偕(とも)であるが故に、すベての恐怖と、怒りと、劣等感は拭いさられたのである。われはなにものをも恐れない。私はすベての人を愛する。それ故に、彼をも愛するのである。愛は無敵である。愛の前には敵はない。すベてのものは味方となるのである」

 

 

 

つづく

 

 

谷口雅春著 「生命の実相」