○"国民主権“は絵に描いたモチ 

 

国民主権と議会制民主主義との間には根本的に矛盾が存在しているのである。国民ひとりひとりに主権があり、思想の自由、行動の自由、言論の自由、表現の自由が憲法の条項の上では許されているけれども、国民ひとりひとりはことごとくその物の考え方が異るし、従ってまた思想も異り、その希望するところも異り、その希望を自由に表現しようと思うならば、必ず他の人々の希望の実現と衝突する事実にぶつからざるを得ないのである。だから国民主権などというものは、単に絵に描いた餅みたいなものであって』実際には食べられる餅ではないのである。
  


だいたい議会制民主主義によって国民ひとりひとりの主権の行使を国会に於ける代議士に委託しても、それによって自分の意志のように政治が行われる希望はほとんどないのである。たとえば米価は消費者側にとっては安い方がよいのであるが、生産者側にとっては高い方がよいのである。そして農村に選挙の地盤をより多くもっている自民党の代議士は、農村に味方をして政府の買上げ値段を高くして農民をよろこばしておいて、次の選挙に自分の票を失うまいとするのである。このとき、農民は一例であるけれども、現ある利益団体の代表者議会制民主主義による国会というものは、利益団体と利益団体との戦いの"場"であって、その利益団体が二つである場合には二大政党というふうになるし、その利益追求の団体が数個にわかれると政党の多党化という現象を生ずる。

 

そしてその多党化した政党の代議士が、おのおのの利益および権力を得るのに汲々として党利党略の下に離合集散するのであって、主権をもつという国民ひとりひとりは置き去りにされていて、ほとんど何の意思表示もできないのである。そのような実情のもとに、どこに国民主権の実があるのか。選出された代議士および、そのうちの多数党の親分が権カ者として統治者の位置にあがり、国民は被治者の位置にさがり、国会で定められた法制の下に縛られるのである。そして政治は「主権をもつと称せられる国民」を置き去にして勝手気ままの方向に流動するのである。 
  


このことを武藤貞一氏はその機関誌「動向」十一月号(四十二年)に次の如く批評しているのである。

「しかしながら(この議会制民主主義は)実際は、法則の、あるいは観念の遊戯にしか過ぎないという冷厳な事実を、われわれはこの目で兇せつけられている。即ち投票によって選び出された『代理人』は、たとえ『代理人』であり得ても、所詮、本人(主権者)それ自身ではない。はるかに異質のものである。片田舎の目に一丁字のない婆さんが、投票用紙に『さとうえいさく』と書けば、この一票はたしかに佐藤栄作氏を国会に送り出す要素の何万分の一かを形成するわけだ。でも、佐藤栄作氏は、この婆さんの『身替り』でもなければ直接代理人でもない。佐藤さんは佐藤さん、婆さんは婆さんである。これでも、この婆さんは国家の主権者と名乗れるかどうか。…」 
  


この武藤貞一氏の「これでも、この婆さんは国家の主権者と名乗れるかどうか」という設問は、この婆さんだけに投げかけられた疑問ではなく、ほとんどすべての国民はこの婆さんと同じ位置に置かれているのであって、日本国憲法に定められた国民主権というものは、実際には、絵に描いた餅、又は作文の上に創作されたウソの主権であって、日本国憲法そのものが、実際には持ち得ない国民主権を持ち得る如く偽臓して作文されたものなのである。


つづく