愛は刑より強し

   
つづき


デーリーは、さっき云った言葉を繰返した。「聖書にあらはれてゐるキリストは自分自身の宗教以外の何人の宗教に對しても寛容性がない。彼はパリサイ教徒に對して憎々しく辛い言葉を以って応酬している。彼が用ひたところの言葉の或るものは私の信仰又は尊敬を裏切るものである。僕にはかう思へるね。君の見たキリストは或る非常に貧しい翻訳者によって歪められてゐるやうに思はれるのだ。キリストは言葉の悪い配置によって失はれてしまってゐるやうに思はれる。若し彼が高い影響を僕の生涯に與へるためには、もう一度キリストを把握し直さなければならないと思ふのだ」


ライファーは假りにデーリーに同意したやうな口調で云った。「君はその點に於いて正しいと云ひ得るかも知れない。」そして「だが、眞のキリストは愛である。そして勿論、それは或る一個の人間と云ふよりも寧ろ一個の状態である。僕はイエスは神の人以上であると思ふ。だが、キリストは神の状態以上である。イエスは恐らく愛の『體(ボディ)』かも知れない。しかしキリストは愛そのものである。イエスは恐らく詛(のろ)ひの言葉を吐いたかも知れない。しかしキリストは赦したのだ。眞のキリストは愛である。神の子である。さて、愛が神学の創設や教條の製作者や翻訳者によって拒絶せられたと考へて見給へ。それはそれとしてよろしい。しかし其處に君にとって恐しい誘惑がある。若し眞の愛のキリスト
を間違った翻訳の断片から、再認識しなければならぬならば、その再認識は誰がなすべきであるか。

デーリーはそれに回答し得る自信がなかった。

ライファーは言葉をつづけた。「君がそれをなすべきである。君は最後の審判の日が来るまで君の智力をもって聖書を研究することが出来るだらう。そして君がそれを研究すればする程、聖書の傳へんとするメッセージをより少く把握するだらう。そして君が、あの小さい雀ぺテロの冒険的な信仰と、あの小さな雀ヨハネの果敢な愛とをもって聖書を受けとることをしないならば、君はあのトマスと呼んだ小さな雀と同様に君は窓の外に居残ってパンのカケラが投げかけられるまで待ってゐるしか仕方がないであらう。聖書は、分析すべからざるものを理性をもって理會しようと考へるよりも、信仰と愛とをもって受くべきものであるのだ。」

 

つづく