「東京」は毎日宣伝して知られていますが
宣伝していないのに一番知られている地名は
関ケ原
でしょう
関ケ原町役場
人口は7,183人しかいない町ですが
知名度抜群!
今から417年前にここで大合戦がありました
東軍 徳川家康
西軍 毛利輝元(影の総大将 石田三成)
双方8万人の兵士を集め16万人が合戦を
しました
関ケ原町歴史博物館
入口では石田三成、徳川家康になれます
最近は石田三成の人気が高いですね
中には関ヶ原の合戦の詳細がわかります
道路を走っていると
関ヶ原古戦場跡の看板
行くと全くの田んぼの真ん中
史跡 関ヶ原古戦場 決戦地
そのすぐ横にあるのが笹尾山
石田三成の陣地のあったところです
なにやら怪しいモニュメント
怪しいモニュメントがある笹尾山
石田三成の兜のモニュメント
真ん中に隙間がありますこの隙間を後ろ
から見ると、徳川家康の最初の陣跡の方向
を向いてあるらしい
しかし
微妙に少しエロい
矢来(やらい)
この木組は矢来と行って丸太を組んだ柵です
笹尾山山頂 徒歩5分の看板
「5分ぐらいだったら行こうか」と
思いますよね!
ところが大変!
とっても急な坂で
とても5分で登れるものではありません
最後の階段
この階段を登ると
石田三成の見た風景です
矢印のところが
最初に見た「関ヶ原古戦場跡 決戦地」です
感想としては関ヶ原全体を見渡せる
大変見晴らしの良い場所です
その当時の地図
関ヶ原は
中山道と伊勢街道、北陸街道が交差して
赤が東軍、青が西軍
これを見ると毛利秀元が動けば徳川家康の
後ろを攻撃できたのに吉川広家が寝返って
動かなかったので、動けなかったらしい
とどめは小早川秀秋裏切りで西軍は負けた
毛利家は毛利、吉川、小早川の三家が親戚
毛利本家は動かず、吉川、小早川は寝返り
史蹟 関ケ原古戦場 徳川家康最後陣地
ここで家康が首実検をやったところです
西軍総大将毛利輝元は自分に代わりに
毛利秀元と吉川広家を関ヶ原に派遣して
自分は大阪城にいたのです
毛利輝元がちゃんと自分で出陣して西軍の
総大将として働いていたなら天下も狙えた
かも知れません
ところがなにもしなくて
元々100石以上あった領地のうち
一日の合戦で70万石以上の領地を失った
毛利家は名誉を回復するために260年かかり
長州藩として徳川幕府を討幕した
歯が無くなってからも何とかなります
260年かかりません
↓
たかぼん
関ヶ原歴史民俗博物館
関ヶ原観光Web
笹尾山 石田三成陣跡 マップ