言動の裏側にあるもの | フェイシャルハーモニーと遺伝子易経Gene Keysで輝く自分とつながるブログ

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東京恵比寿でフェイシャルハーモニーを提供&お伝えしながら、遺伝子易経(Gene Keys)リーディングも行っています。内なる旅を共に始めましょう。

『見るのも嫌だ』の発言で

政治家更迭のニュースが飛び込んできました。

 

 

 

 

”人権や価値観は尊重するが”

と言いながら

当事者に対する差別や嫌悪感をあらわにした

発言に聞こえます。

 

 

 

考え方や好みはそれぞれ自由だけれど

どんなに礼儀正しい言葉を用いても

 

 

 

 

発言の裏側にある

心の根底の闇が匂って来ます。

 

 

 

 

「2人の僧侶が川を渡る話」を

思い出しました。

 

 

 

2人の僧侶が旅をしていて

急流の川に差し掛かったところ

美しい女性が川渡りをためらい困っている

所に遭遇しました。

聞けば急用で渡る必要はあれど流れが速く

怖くてためらっているとのこと。

 

”女人に触れない”誓いを

立てている僧たちだったが

年配の僧は迷わず
「それなら私が担いであげますよ」と

女性を抱え上げ
川を渡ると向こう岸にそっと降ろし
何もなかったように

旅を続けたのだそうな。

若い僧侶はあっけにとられ

誓いを破った先輩僧の行動が信じられず
悶々としたまま旅を続け
何時間も経った頃、とうとう我慢できず
先輩僧に訴えるのです。

「女人に触れてはならない神聖な誓いを破り
あのような行動をとるなんて

一体どうしたことですか」と。

先輩僧は応えます。
『私は女人を川を渡し、岸に降ろしたが
お前はいまだに背負ったままなのだな。』

 

 

 

様々、深読みできる

素晴らしいお話です。

 

 

 

冒頭の『見るのも嫌だ』発言で

なぜ思い出したのか?

考察してみます。

 

 


 

 

 

戒律はあれど

人間の男性である僧侶2人…。



戒律を守るかどうかは意思であり

仏の道に精進する程に

理解の深まりも伴い

身につくのでしょうか。

 

 

 

ただ僧侶である前に人間であるなら

生理的欲求、性としての本能は別物。

 

 

 

むしろ自然なことである欲求を

完全にコントロールし得るとするなら

それこそが修行の賜物なのでしょう。

 

 

 

禁じられれば禁じられるほど

興味を惹かれ、憧れを抱き、妄想してしまうのが

人間という生き物なのでは?

 

 

 

とすると

 

  

 

若い僧侶はまだその未熟さ故に

人間的欲求によって

悶々としたのだと推測するのです。

 

  

 

つまり

興味、憧れ、妄想が自身の中にあるから

先輩僧の行動に反応し

咎める訴えになったのだと。

 

 

 

 

 

同じように 

『同性婚』への発言の根底には

興味や憧れ、妄想と言ったものが

自身の中にあるのでは?と。

 

 

 

 

社会的イメージや立場から

自身でもそれを認める訳には行かないのか?

それとも隠したいのか??

 

 

 

 

抵抗するからこその

著しい暴言になったのでは?と

感じてしまいました。

 

 

 

 

”自分は違う”“自分はストレートだ”と

まるで正当化しているように

私の目には映ってしまったのです。

 

 

 

 

もし先輩僧のように

欲望や妄想と折り合いをつけて

平常心だったなら

 

 

 

嫌悪感を抱く、または

あらわにするような

発言が飛び出したでしょうか?

 

 

 

まして

”人権や価値観は尊重する”のなら…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これも『抵抗』の一種なんだと

思うのです。

 

 

 

本心に気づいていないか

気づかないふりをしている時

 

 

 

反発的になったり

抑圧的になったりする…。

 

 

 

これが遺伝子易経で言う

『心の闇』周波数なのです。

 

 

 

必要以上に相手を責めたり

拒絶したり、執着したり、ムキになったり…。

 

 

 

そのどれもが

『抵抗』だったりするのです。

 

 

 

 

 

『ある時

“穏やかさ”を感じていた…。

でも何か

そこにちょっとした違和感も感じていて

しばらくそこ(違和感)に座って

様子を見ていた…。

 

だいぶ時間が経って

“穏やかさ”だと思っていたものは

『穏やかなフリをしていた』と

気がついた。


それは全く”穏やかさ”とはかけ離れた
雷が落ちたような

激しい感情だった…。


(by.タンマヨ)

 

 

 

魂のガイド タンマヨに聞いた話から

私自身も同じような経験をしている事に

気づいたことがありました。

 

 

 


私の違和感は特定の人との

エネルギーバランス。

 

 

 

 

自分の側が下手に出ているような?

(実際は出てはいなかったが)

バランスの悪さ、違和感を

何故かいつからか

感じるようになっていたのです。

 

 

  

数年そのまま経過する中で

“気のせい”“思い過ごし”と

自分の心の声に聞く耳を持たず

 

 

 

錯覚は幻想で

何も問題は起きていないと

信じ始めた頃に

 

 

 

 

ある1つの出来事を通して

その違和感が錯覚なんかじゃなく

 

 

 

 

明確な正体が何であったかまで

気がつくことになったのです。

 

 

 

 

ナゼそうなったの?と

今思い返すと

とってもシンプル…。

 

 

 

傷つくことを恐れるがあまり

無意識にそこに蓋をして

何もなかったことにしていたのです。

 

 

 

頭が唱える固定された考えが

”無意識の蓋”を強化するような

美化、養護、正当化のアイデアを

次々と思い浮かばせて

 

 

 

心の声をかき消して

目をくらませていたのです。

 

 

 

これも待って生まれた

“最大の傷(遺伝子易経チャートの核)”である恐れから自分を守るための防衛策の1つで

 

 

 

幼い頃から無意識下で育んで来た

パターンなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結果として

被害者も加害者もいないままに

 

 

 

大きな気づきに至れた事を

嬉しく思います。

 

 

 

 

自分の心のことは

自分自身にしかケア出来ないから

 

 

 

誰かのせいで…や

何々がこうだったら…などと

外側に幸せを求め続けても

無限地獄を彷徨うようなものです。

 

 

 

幸せは

自分の心が感じる感覚だから

 

 

 

自分の内に向かい

心の声に耳を傾け続けるしかないのです。

 

 

外側には誰もいない
全ては内側で起きている


(by.タンマヨ)

 

 

 

今日も最後までお付き合いくださり

ありがとうございましたお願いハートキラキラ