誰かにムカつきすぎて苦しい心の癒し方。
「誰かにムカついた時」の感情について。
ラノベや漫画では、「ざまあ」といって、主人公に意地悪をした人たちが相応の報いを受けてくれて、その「ざまあ」で読者は留飲を下げることができるのですが…
現実は、なかなか、そうはいかないです。
どう考えても理不尽だという悪意、意地悪に晒されて、傷ついて、悲しくて辛くても、周囲は巻き込まれたくないから見て見ぬふり。
誰も味方じゃなくて、一人ぼっちで対応しないといけなくて、
せめて反撃できればまだしも、たいていはそれさえ出来ないことが多くて、ただ黙って耐えるしかない悔しさと惨めさが続く。
毎日辛くて、しんどくて、死にたいくらい追い詰められたとしても、それをやった相手は痛くもかゆくもなく、何なら普段はこちらのことなんか思いだすことさえなく、のうのうと楽しく幸せに生きてるんですよ。
見て見ぬふりの周囲も同じ。
辛いのは自分だけ。
現実って、まあ、たいていこうです。
彼らに罰なんて、当たりません。
罪悪感を感じない人間は、罰も当たらないものなんです。
(当たっても気づかないか、逞しいから、すぐ立ち上がって復活して元気に生きていきそう。
なにより、神罰みたいなものを期待したとしても、そもそも神様ってやつは視点が大きすぎて、基本的に私たち人間の細かいことなんてノータッチだからそういうの当てにしても無駄というか)
理不尽だと思うこといっぱいで、納得いかないけど、この世ってそうなんですよ。
地球は弱肉強食の世界で、人も動物なんだなって、思います。
だからこそ、物語の世界での「ざまあ」がこれだけ流行るのでしょうね。
たぶんね、虐める側の人たちは、こういう物語には興味を持たない気がします。
で、「ざまあ」したくても出来ない悔しさ、怒り、そういうのをどうするのか、なんですが…
「そんな奴は忘れて自分がもっと幸せになればいい」という、
「模範的に清く正しく美しく強い心の方」は、この先読まなくていいです。
ここで読むのをやめて、このブログを閉じて、模範的に清く正しく美しい心のまま、生きていってください(^_-)-☆
「分かっててもムカつくもんはムカつくんだよっ!」って方は、この先を読んでね。
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「そう思えばいいと分かってても、どうしても許せなくて苦しい」
「仕返しできるならしたいのに出来なくて、憤りすぎて辛い」
「ギャフンといわせたいのに出来ないのが悔しくてたまらない」
そういう思いがあるときって、相手に、その怒りは飛んでます。
サイキックアタックです。
だけど、相手に罪悪感がないとそれは何の影響も与えないし、逆に、相手の方が念が強かったり、サイキック能力なんかがあると(その自覚があっても無自覚でも)、こちらのアタックを跳ね返してきます。
これって再度負けるようなもので、より悔しく惨めになります。
(投げた石が打ち返されて、それが自分に当たって「あいたっ」ってなる感じ。地味に悔しい)
とはいえ、本当は怒りでいっぱいなのに、まだまったく気が済んでいないのに、「相手より幸せになればいい」みたいに、
自分のその悲しみを無かったことにして、
まだ痛い心に気づかないふりをして、
心に蓋をするのも、
同じくらいダメなんですよね。
(こういう「やせ我慢」を続けてると、徐々に心が麻痺して、頭と心がどんどんズレていき、最終的には鬱になるか身体を壊すかで動けなくなったりします)
じゃあ、どうするのが良いかというと、
「相手を呪わずに、自分の感情を感じる」なんです。
「同じくらい辛い目に遇えばいいのに」
「不幸になればいいのに」
「報いを受けたらいいのに」
って気持ちを、
相手に思いの刃として向けないようにしつつも、
自分の心がそう思ってしまうことは許す。
怒りや悔しさを、自分の心の中でだけは、自由に暴れさせてやる感じ。
これは、セーフ。
だけど、
「同じくらい辛い目に遇え」
「不幸になれ」
「報いを受けろ」
みたいに、相手へそういう攻撃の思いを向けるのは、「呪い」(サイキックアタック)になるので、アウトです。
これ、自分自身も、ダメージを受けます。
相手の念、エネルギーが強ければ、呪いが跳ね返ってくるので危険だし、こういう呪いを発することで、自分自身の身体、細胞、臓器にもダメージを受けます。
エネルギー体も汚れてしまうし、肉体にもダメージくるんですよ。
呪いって、自爆テロみたいなものだから。
簡単に消化できないネガティブで破壊的な感情は、「セーフ」のやり方でもいいのだけれど、
その時に、もう一歩、自分の心に踏み込んで、
相手への怒り、憎しみの奥の、
「私は悔しい」
「私は悲しい」を感じ尽くす。
を、してみてください。
自分の内側だけで、爆弾処理する感じ。
そうやって、自分の心をじっくり辛抱強く感じ尽くして、
感じ尽くして、
感じ尽くして、
感じ尽くして、
感じ尽くして、
感じ尽くして、
感じ尽くして、
自分の中に深く深く、深く潜って、
潜って、
潜って、
潜って、
底の底まで沈んで、
沈んで、
沈みきって、
ただひたすらに心の、感情の全部を、残さず感じ尽くして、
気が済んだら、
いつのまにか最悪が過ぎていて、
手放して、自然と次へ進んでいる自分になっています。
これが、ヒーリング的な、心の扱い方です。
「マインドシフト」「SOU」の基本の一つでもありますよ。
あなたの心が癒されて、愛と幸せに包まれますように。
あなたの毎日が、穏やかで、平穏で、満ち足りた日々でありますように。
思考タイプと直感タイプ。
「思考が強い人」
理屈っぽい、
頭でっかち、
考えすぎる、
何でも頭で理解しないと気が済まない、
みたいな人。
そういう人って、自分自身がとても柔らかく、どんなものにも染まりやすかったり、流されやすいことを知っているから、「思考」というバリアで守ろうとしているのだと思います。
だから、そういう人は、なるべく一人の時間をもって、
「自分だけ」の心や感覚の状態を把握しておく必要があるんですね。
純粋に自分だけのときの心や感覚と、
誰か、何かに影響された時のそれの違いを知っておく、みたいなこと。
そのためには、自分自身の心、感情をちゃんと感じる、ができるように、日々自分と向き合う練習を続けることも大事です。
自分で自分を理解できるようになっていくほどに、自分の「スタンダード」、「素の状態」が分かるので、
自分の中心からズレたり、
グラウンディングが甘くなっていたり、
他人や、霊や宇宙人や、その他見えない存在からの干渉があったり、
そういう何らかの「異常」にも、気づくことができるようになってきます。
ヒーリングも実は、「自分を知る」がとても大きな目的で、その手段のひとつでもあるんです。
心理学、カウンセリングもそれが目的とも言えますし、そういうことです。
自分のことを自分で理解できている深さ、純度、繊細さのレベルと、
人や社会や、スピリチュアルな世界を見るレベルは、イコールです。
また、あるジャンルではよく見れていても、あるジャンルでは苦手、があるとしたら、人や社会に対してもそうなります。
例えば、「不倫許せない!」って思っていたとしたら、その部分の自分のブロック、過去の心の傷や古い感情など、そういうものが未解決だと、そのフィルターを通してしか見れないので、そういう出来事や人に対してもそのフィルターで反応してしまいます。
カウンセラーやヒーラーだったら、お客様がそれをやっている人だった場合、正しい(中庸中立、客観的)対応が難しくなります。
思考派も、感覚派も、どちらが良いとか悪いとかではなく、単にそういう個性というだけです。
思考派は、過去や前例からじっくり考えて一番良いだろう手段を選ぶので失敗しない可能性が高く、ゆっくりながら着実に目標に近づいていくタイプ。
予想を超えることを望まないからそうするので、想像の範囲内の成果が手に入ることが多いです。
ただし、思考で内からの直感を抑え込み過ぎて、生まれた目的をあまりにも逸脱したり、達成が遅れすぎると、
「考えてもどうしようもない状態」に追い込まれ、思考停止させられ、正しい方向への矯正と、到達するべき地点へ一気に進まされる、
という「イベント」が起こります。
対して、感覚派は直感的に行動しがちなので、時にとんでもない状況になったりもしますが、なぜか最終的には「なるようになる」、結果オーライが多いです。
行動することで身をもって体験しながら学ぶので、学びのスピードは速いはずなのですが、思考と分析があまりにも足りないと、経験から学べず何度も同じことを繰り返してしまいがちです。
なので、
ある所で「なぜ?」と立ち止まらされ、「自身の行動と結果の理由を考える」ことが必要なタイミングが必ず来ます。
思考も感覚もどっちも大事で、
バランス、
優先順位、
使い方、
結局私たちは、自分自身の操作方法を上達させないとうまくいかないようになってるんです。
どっちみち私たちは、「自分を知る」ことからは逃げられなくて、人生で起こることは全部、そのために起きてます。
「自分を知る」ことは「人を知る」ことで
「自分を知る」ことは「世界を知る」ことで、
「自分を知る」ことは「宇宙を知る」こと。
「自分の中にすべてがある」というのはそういうことで、
そういう学びをしに、私たちは、今世は人間として地球に生まれたのです。
以前は、「痛み」「苦しみ」「苦労」「欠乏」「不幸」みたいな逆境から幸せや豊かさや喜びや感謝を学ぶ、というやり方がメジャーでしたが、
ちょっと前から、
「幸せ」から幸せを学び、
「豊かさ」から豊かさを学び、
「愛」から愛を学ぶ、みたいに、
「そのものから素直に学べる」スタイルが生まれてきています。
なので、「学ぶ」=「苦労の末に」でなくてもいいんです。
「愛から愛を学ぶ」
「幸せから幸せを学ぶ」
「豊かさから豊かさを学ぶ」と決めたらいい。
って書くと、
「今はひとりぼっちだけど、そう決めたらたくさん愛されるようになる」みたいに、
「今の状況が夢のように変わる」みたいに思う人がきっと多いと思います。
まあ、そういうのもあるかもしれないです。
ただ、そうならないと、
「なーんだ」とか、
「やっぱり(そううまくいかないよね…)」みたいに失望しちゃう人がいるかと思うんですが、
「愛されていたことに気づく」ことで、
「愛から愛を学ぶ」かもしれないのですよ。
「愛されることを受け取れるようになった」から
「より愛されるようになる」もあるだろうし、
「すでに愛されていた」と気付いたことが
「愛されることを受け取れるようになる」のパターンもあるんです。
「すでに豊かだったと気づく」ことが
「豊かさを受け取れるようになる」だったり、
「豊かさを受け取れるようになった」から
「より豊かさがやってくる」もある。
セロトニンとかエンドルフィンという「幸せ物質」が出ていても、受け取る「受容体」がなければ感じられないし、
「受容体」があっても「幸せ物質」が少なければやっぱりあまり感じられない、ので、
「気づく」=「受容体が増える」で、
「幸せになっていいと決める」=「セロトニンやエンドルフィンが増える」で、
ということを書いていて気付いたのですが、
ヒーリング中って、頭を一番触るんですね。
最初もだし、途中も触るし、最後も仕上げにトータルをチェックするために触ります。
(性格も感情も脳で、その神経の先に全部の臓器が繋がっていて、脳と臓器や細胞は双方向で影響しあっているし、脳はCPUみたいなもので、とても重要なんです)
その時に、「ぐにゃーん」と溶ける感覚になり、しばらくすると「収束」する、というのが何度も起こります。
ヒーリングが終わると、「自分を好き」とか「自分を許せる」とか「なんかウキウキする」「理由なく幸せ」という心になっているのだけど、
それは、
脳細胞が変わることで
「反応の癖」(記憶や性格)が変化し、
受容体と脳内物質の量が増えることで
「理由なく幸せ」「なんかウキウキ」と感じるようになっている、んじゃないかなと思いました。
遺伝的に受け継いだ脳の質、反応癖、
そこからこれまでの経験で「癖」が強化されたり、または弱められたり、新たな「癖」が出来たり、が「今の脳」で、その認知の仕方で「記憶」は作られていて、
それらが変わることで脳全体の「反応癖」も変わり、
すると「認知」の仕方も変わり、今の現実に対する見え方感じ方が変わっているし、同じように過去の記憶のそれも変わってる
→今の悩み、過去の記憶を思い出しても辛くない、嫌じゃない、よく覚えてない、ぴんと来ない、
になる。
更に、
「幸せ物質」が出やすくなり、
「受容体」も増えたので、
「なんか幸せ」だと感じたり、
これまでの日常と同じなのに「しみじみ幸せ」を感じたり、になる。
科学的に調べたわけではないので、あくまで私の予測にすぎないけれど、仕組み的にはたぶんそういうことだろうなと、思います。
弱いまま、ダメなまま、そのままの自分で楽に幸せになってもいいんだよ。
「人は誰でも幸せだ」とか、
「誰でも自分で幸せになる力があるから大丈夫」とか、
そういう屁理屈も知ってるし、分かってる(笑)
だけどさ、実際、悲しくて辛くて、死にたいのに死ねなくて生きてる人って、いっぱいいるんですよ。
「死にたい」って言ってる人はね、「死にたい」んじゃなくて、
「今のまま生き続けることが辛い」なんです。
「今の状態はもう嫌だ」
「幸せになりたい」って言ってる。
本当の本心はこっち。
彼らはね、「気」が枯れてしまってるのです。
自分に厳しくて、いつも自分を責めてて、
だから、それ以上誰からも攻撃されないように自分に鞭打って頑張り続けて、
疲れ果てて、生きる意欲も気力も枯渇してしまった人たち。
「ノルマ達成しなかったらボロクソに罵倒されて、ノルマ達成したら翌月10%増し」が永遠に続く職場があったら、遅かれ早かれみんな潰れてしまうよねきっと。
「死にたい」になる人たちの心は、そういう世界なんです。
ここで生きることは、誰でも大なり小なり苦しいです。
今だって、死にたいと思いながら、かろうじて生きてる人はいっぱいいるでしょう。
私は、過去ずっとそうでした。
高校生くらいからずっとずっと、毎日死にたかった。
自分が嫌いで、無価値で、生きる意味なんてない、無駄な人間だって思ってて、
何かがどんなに出来ても、やっと人並みになったくらいにしか思えなかったし、
逆に、人並みに出来ない何かが一つでもあると、人としてダメ、不良品のポンコツだって自分を責めてました。
学校も就職も親の期待に応えられなくて、その仕事も行けなくなって辞めちゃって、次の仕事も見つけられないまま引き籠ってニートになって、
あの頃は毎日辛くて、本当に死にたくて、役立たずで生きてる意味もない、なのに死ぬ勇気もないと自分を責めてました。
スピリチュアルやヒーリングの世界ではね、悩むのも落ち込むのも、死にたいと思うことも、自己責任だと言われます。
今の自分も現実も、自分の心が、選択の結果が創った自己責任だと。
(あと、「悩む」とか「落ち込む」とか「死にたい気持ち」という経験がしたくてやってる、それを学んでる、とかね)
そうだとして、だから何?
そうだとしても、辛いもんは辛いんだよ。
弱いから何?
弱くても、
いくじなしでも、
甘えてても、
役立たずでも、
幸せになっていいじゃん。
幸せになりたいと思っていいじゃん。
弱いなりの、
意気地無いなりの、
甘ったれなりの、
役立たずなりの、
幸せになる道があっていいじゃん。
ダメでも、
バカでも、
要領悪くても、
豊かに幸せになっていいじゃん。
って、私は言いたくなるんです。
現実の幸せを創るのは本人の行動だけど、そのベースは心で、
何かのために頑張るには、
心の中に、夢や希望や喜びのような、良いエネルギーが十分にあることが必要なのです。
心が元気じゃないと、
夢や希望や喜びを感じられるくらい元気でないと、どんな幸せも豊かさも創れないから。
ヒーリングは、心や身体を癒して、「元の気」を取り戻してくれる知識でノウハウ。
自分の心や身体を癒す力は、本来誰もが持っている力で、ヒーリングは、それを取り戻すためのものでもあります。
心って、どんなにうまく取り繕おうとしても、根本が変わっていなければ、また同じ感情にさせられる出来事が何度でも起こります。
自分で自分を説得したり、
言いくるめたり、
考え方を変えようと頑張ったり、
自分をなだめながら心が落ち着くのをじっと待ったり、
私はそういうのがもうほとほと嫌で、うんざりしてたから、ヒーリングに打ち込みました。
心の問題は、やっぱり根本から徹底的に解決しないとダメなんだって思ったから。
ヒーリングって、
「気枯れ(ケガレ)」を癒して、元の気(エネルギー)を取り戻すんだけど、
同時に「枯れさせる原因」も取り除いていくから、心の質が変わっていきます。
「プラスを作る」んじゃなくて、「枯れさせる原因」というものが私たちの本来の状態にはなかったもので、そもそも「元気」が当たり前なのだから、それに戻すだけ。
私がヒーリングで癒されたときに感じた幸せ感、
本当に心、いわゆる「ブロック」とか「思い込み」が芯から変わった時の解放感や、生まれ変わった感覚、幸せ感、安心感、
昔の私のように、今がとっても辛くてしんどい人に、そういうのを、体験してほしいなって、思う。
ダメでも、弱くても、生きていていいんだよって伝えたい。
何度でも癒されて、
弱いまま、
ダメなまま、
そのままの自分で楽に幸せになってもいいんだよって。