「売られた喧嘩」を買う以外の対処法。 | 福岡 共感ヒーリング ATHANAHA(あたなは)

「売られた喧嘩」を買う以外の対処法。

「サイキックアタックを受けたらその相手に愛を送る」

 

というシータヒーリングの教えがあるのだけれど、これ、私はずーっと納得いかなかった。

 

 

「なんでウンコ投げてきたような相手に愛を送るんだよ!相手の勝手な私への感情で私は迷惑してるのに!」って。

 

 

 

私はこれをね、「相手を許して受け入れて愛しなさい」的な、キリスト教の教えみたいだって思って反発してた。

 

「あなたはいつも心清らかな善人でいなさい」みたいな。

 

 

 

これって、一昔前のスピリチュアルで、

 

「怒ったり恨んだり悲しんだり、ネガティブはダメ、

 

いつも心は美しく明るくポジティブな状態でいましょう」

 

的なこと言ってて、

 

今でも一定数はこういう一派ってのはいて、それに対する反発と納得いかなさとも繋がる、同じ感じ。

 

 

 

「キラキラ系・ポジティブ推奨スピリチュアル」ってさ、そりゃ最初はそれから入るし、なんかそれで癒された、自分は良い人間になったと勘違いするんだけど、

 

 

しばらくすると、

 

「自分はやっぱり今でも苦しいまま、根本的には全く癒されてないし楽になってないし、

 

どんなに頑張ってもやっぱり本心では怒ったり恨んだり妬んだりするし、自分のそこ否定するとものすごく苦しくなる」

 

ってことに気付くわけよ。

 

 

 

スピリチュアル入り口のときって、自分もまだいろんなこと分からないし知らないから、

 

「なんかキラキラで凄そうな人がそう言ってるからそうなんだ」って思っちゃう。

 

 

で、「信じてやってみたのに全然楽にならないどころかさらに辛くなった」から、

 

なんかそれまでの自分へのネガティブ否定と我慢のストレスが恨みに変わってさ、そういうスピリチュアルが大嫌いになった。

 

 

 

当時は、そういう人はもう完璧で、正しいんだって思ってた。

 

なのに、そういうキラキラ系の人をみるとなぜかキリキリした緊張感を感じて、息苦しくてたまらない感覚になってた。

 

 

滅入るというかどんより落ち込むというか、奴隷のような感覚というか、

 

「この先ずーっと我慢で修行で、自分を戒めながら、『間違わないように』いつも清く正しく生きてね」

 

って言われるみたいな、夢も希望も無くなる、灰色な沈んだ絶望的な気分になる。

 

 

 

喜怒哀楽の選別、心のネガティブ面否定、禁止、

 

人間らしさ全否定、

 

「美しいものだけ見ましょう」的なそのいびつさ息苦しさ。

 

 

これは変だ、なんかおかしい、違う、ってある日気付いた。

 

 

 

でね、自分がいろいろ学んで経験して、分かってくると、私が感じていた息苦しさは間違ってなかったって分かったんだ。

 

 

彼らは「許す」ってよく使うけど、その許しは条件付きで、

 

「良い子だったら許してあげるし愛してあげる」なんだよ。

 

 

「悪い子だったら(言うこと聞かなかったら)愛してあげない」なの。

 

 

「言うこと聞くなら仲間に入れてあげる、でも逆らうなら捨てるよ」って言ってる。

 

 

 

これは許しじゃなくて「コントロール」で、新興宗教だけでなく、宗教というものは「これが正しい」というその中での価値観があって、それに従わなきゃならないもの。

 

だから一種のコントロール。

 

 

 

一昔前のスピリチュアルってね、まあ今でもまだこういうスピ人いるし、スピでなくても、ベジタリアンとかオーガニックとか天然とか推奨の人たちの中にも多くいるんだよね。

 

 

あと、一般の普通の人でも、たとえば「~であるべき」「~でなくてはいけない」って思ってたら、やっぱりこの仲間。

 

 

 

「良い悪い」

「善悪」

「常識」

「普通」

「道徳」、

 

こういう価値観を疑わず、それを根拠に考えたりものを言う人はすべてこれ。

 

 

 

既存の価値観を疑わず、

 

本当は感じてる自身の心の奥の違和感をごまかして、

 

 

「自分が本当はどう思うか感じるか」を掘り下げず、

 

思考停止して「当たり前」の中でぼんやり生きてるから苦しいし、

 

 

そこを、自分の本音本心をえぐらないでなかったことにしてるから、癒されないし楽にならない。

 

だから、「どうしたいかわからない」なんてなる。

 

 

 

 

目の前の悩みって、「自分をさぼったツケ」なんだよね。

 

 

自分の心、本音本心を見て見ぬ振りしてるから、

 

自分の本当の望みを叶えてあげることをヘタレてやらなかったから、

 

人や世間の顔色ばっかり窺って卑屈に奴隷のように生きてるから、

 

目の前にそれを突き付けられる出来事が起きてくる。

 

 

 

「テメーいいかげんにしろよ!

 

いつになったら私を見るんだよ!

 

いつになったら私のために動くんだよ!

 

いつになったら私を幸せにしてくれるんだよ!」

 

って自分に言われてる出来事、それが悩みや問題の正体で原因。

 

 

 

 

 

でさ、サイキックアタックね。

 

私はその人のサイキックアタックのせいで実際に自分の心理面、内面に干渉されてるの分かるし、現実にいろいろ嫌なこととかも起きたり、ほんとウザくて迷惑で、その原因の相手に怒ってる。

 

 

ちょっとくらいならハエを追っ払うくらいな気持ちで放置するけど、しつこかったり度が過ぎて私に被害があった時なんかは、ブチ切れて、「いい加減にしろよ!」って、殴り返したくなる。

 

 

 

怒りの度合いによっては「もう二度と私に刃向おうと思わなくなるまで徹底的に叩きのめしてやる」ってくらいキレるし。

 

 

「いい加減にしろよ!テメー舐めてんじゃねーぞコラ!ぶっ殺す!!」

 

なヤンキーノリの勢いで怒ってますよ。本音はマジでそれ。

 

 

 

なのに、「『愛を送る』だあ!?いやそれぜんぜん納得いかねーし!!」って思ってた。

 

 

「戦いや報復は何も生みません。その応酬をやめて許して受け入れて仲直りしましょう」という、クソ宗教的な、クソ道徳的なつまんねー我慢の教えだと解釈してた。

 

 

 

でもこれさ、こういうことかなってある日思った。

 

要するに、サイキックアタックを送ったり、人を恨んだり足引っ張ったりする人って不幸なんだよ。

 

 

自分がたくさん不満があって、つらくて苦しくて、幸せじゃない。

 

だから、心が荒んでヤケになって、あちこちに怒りや逆恨みをまき散らしてるんだ。

 

 

 

で、それは叩きのめす、方法でも追い払えはするんだろうけど、それでまた恨みを買うと彼らはずーっとその念を送り続ける、から、それに関わり続けるやり方ではなくて、

 

 

愛とかヒーリングを送ることによって、彼らのそもそもの不幸がなくなって幸せになれば、

 

なんかもう過去のこととかどうでもよくなって、今が楽しくて、こっちのこと忘れる

 

→サイキックアタックしなくなる、

 

ってことじゃないかと。

 

 

 

なんかこれ、許すとか、美しく愛に溢れて優しい、というよりも、「クレーマーに対してその気持ちをなだめて落ち着かせてお帰りいただく」のに似てるなと思って。

 

 

 

クレーマーって、うまく対応しないと企業の将来にダメージだし、クレームを言ってくる人は熱烈なファンになることもあったりして、

 

だからその対応を適切にやると、企業は自身の繁栄に繋がる、相手も機嫌がよくなり満足する、→双方幸せ、みたいなね。

 

 

 

もしかして、多くの宗教でも言ってる「許し」とか、「人のために生きろ」ってのは、クレーマー対応だけじゃなくて、企業とかビジネスの真髄でさ、

 

「本当に良い人間関係とは」「豊かになるには」の真髄を言ってる、だけなのかなあと思ったのですよ。

 

 

この世の理、法則ね。

 

 

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