「実はシンプル」 | ルーク・フォン・ジェイド
何か、調子が悪いなと感じる時はだいたい「活字」が足りない時で、活字が不足すると苛々することが増えます。

定期的に活字に触れることで、バラバラになっている思考にまとまりが出てくる。
普段はほとんど苛々しないのですが、昨日は珍しく毒を吐いてしまい、自分でも一体何がどうなっているのかわからなくなってしまった。


忙しい時程、書籍に触れなければならないのだと思いました。
思考を安定させるのは、もっと根源的な難しい・・・例えば岩波書籍等の本がいい。
最近はマキャッベリの「君主論」を読んだりしてましたが、あれはあれであまりにもドライ過ぎるので正直な話、あまり好きではありません。

読書好きはもう10代の頃からで、授業を聞かずに一人で別の本を読んだりして過ごしていた記憶があります。

高校の近くに古本屋が沢山あって、毎回何も考えずにそこに寄って、適当に本を漁るのが好きで、平積みになっていて価格もよくわからないような本を手に取ったり、カウンターの向こうにある本が欲しくなったりとかそんな感じで、相当変わった高校生だったのだと思います。

高校時代からバンドに誘われることは多くて、見た目がだれそれに似ているからとか、そんな理由でよく声はかけられましたが、どれも形にはならず 笑 あの当時、もう少し一生懸命やっていたら今はもっと楽だったのではないかと思うこともありましたが、あの当時は当時でやるテーマがあったのだと思います。

もっとやっていれば、タイム感とか小節感とかリズム感が鋭敏になっていたのかもしれないと。

ただ、遠回りしているからこそ表現で出来ることも沢山あって、アホみたいに身体を鍛えていたことによって今出来ていることもあるので、そんな過去で良かったと思えば、恐らく「よかった」に落ち着くのだと思います。

過去を嘆けば、結果「嘆いた結果」に落ち着く。
過去のあれがあったからこそ今があるんだと思えば「良かった」に落ち着く。

人間というものは至極、シンプルに出来ているのだと思います。

人間が成長する為には自己嫌悪が必要だと思いますが、自己嫌悪に終始していては何も始まらない。

人間が自己嫌悪を感じるのはもっと成長したいという欲求があるからに他ならず、自己嫌悪をいうものは健全な人間が感じる至極当然な感覚なのだと思います。

単に自己嫌悪を感じて、自分は存在価値がないって考える人、最近多いですけど、人間というものをそもそも理解していない段階で存在価値がないと結論づけてしまう人って性急というか、どうしてそんなに早く結論を出せるのかが不思議でならないです。

だから僕には自傷、自虐という感覚に陥ることはほとんどありません。
自傷や自虐というのは成長するきっかけをいただいているにも関わらず、何か方向性がずれてしまった結果なのではないかと思うのです。

存在価値がない人間なんて存在しないし、存在価値がなくなるようなことを犯すから、自ら存在価値が低い人間にしてしまう。例えば重犯罪とかそうだと思います。死すべき人間というものも犯罪のレベルによっては存在すると思いますが、多くの人間にとって致命的な「自己否定」は不要の産物だと思います。

自傷、自虐に走る人はきっと、やさしい人なのだと思います。
普通の人は自傷、自虐に走る前に他責と第三者を攻撃する方向へとシフトされていきます。

住民運動とかそうですね、あれは典型的な他責の産物だと思います。
内容にもよりますが、多くはわがままを正当化しているものだったりします。
歳と取れば取る程、人間ってわがまま度合いが上がっていく人もいますが、きっとあれは自己防衛の現れであって、自己否定へ思考が向けば、老人はますます死へと近づいていくからなのだと思います。

自己嫌悪というのは実は成長のチャンスで、そこからいかに自分を変革していくのか、なのだと思います。

僕自身も高校時代は自己嫌悪に悩まされたことがありましたが、ではどうするのかいつもそんな感じで思考転換をしていました。

現状をよりよく変えるには何をすべきか、もうそれは努力しかないのだと。

何かショッキングなことがある度に、努力を続けました。
結果それで、ショッキングな出来事の解決には直接はつながりませんが、次へのチャンスにつながったと思います。

僕の人生はそんな感じで今日まで来ていて、ショッキングな出来事がある度に、方向性の転換、努力のやりかたを変えるで自己防衛してきました。

だから人が感じている以上に自分は自己嫌悪心が強いです。
ただそれを自傷や自虐の方向に向かせないだけのことで、事柄が解決しようがしまいが努力は続ける。
ただそれだけです。

得に第三者が絡んでいること、例えば失恋なんてこちらが努力してどうにかなるものではないし、どうにかなる場合もありますが、そこに執着していては何も変わりません。

少なくとも、これまでの自分ではいけないことは間違いないから何かを変えなければなりません。

だから、今出来る努力は何なのか、まずそれを考えます。
失恋は自分の全存在を否定されたかのように感じるぐらいせつなくて辛いものかもしれませんが、そこに留まっていては結局は何も変わりません。

色々振り返ってみて、痛い過去や辛いこと、大変だったことがあって、現在の自分があるのだと考えると不思議と幸福感を覚えることが多いです。

自己否定されたかのように感じる時は成長のチャンスです。

自己嫌悪に悩まされるときは飛躍のチャンス。

そう考えると人生はチャンスに溢れているってことになりますよね。

落としどころをネガティブな方向に持っていくのか、ポジティブな部分に持っていくのか、ただそれだけだと思います。

違いなんてそんなものじゃないでしょうか。