ウクライナ関連のニュースや報道番組などを見て非常に気になることがある。
それは「クリミア」と言う時には必ずその前に「一方的にロシアに併合された」という修飾語を付けることである。
しかも、しつこいほどに必ずこの修飾語を付け単に「クリミア」とは言わないのである。
どこかからのお達しなのか業界の申し合わせなのかわからないけれど「クリミア」という単一名称は使用禁止となっており修飾語付きでしか呼べないのかもしれない。
クリミアは住民投票の結果圧倒的多数の希望でロシアに併合されたのであるから「武力によって併合された」とか「一方的に」という言い回しは何とも違和感がある。
いかにも先入観を刷り込むための恣意的洗脳的な匂いがしていただけない。
[G7」も単なる7カ国の集団、要するに「Group of Seven」なのに「先進国首脳会議」という修飾語を付加する。
これまたこの中に日本が入っている以上「先進国」なんて修飾語を付けること自体が違和感を感じる。
何故なら日本は経済力だけではなく科学技術力ジェンダー指数やら報道の自由度、化石燃料対策などの様々な指数、憲法無視、三権分立の形骸化や政治の実体などを考えるともはや「先進国」なんてとても恥ずかしくて言えない状態だからだ。
2024年版IMD世界競争力ランキングでは日本はついに世界第38位で韓国や台湾はもとよりタイ、インドネシア、マレーシアにも抜かれてしまった。
IMD調査の世界競争力、首位はシンガポール 日本は過去最低38位 - 日本経済新聞 (nikkei.com)
IMDランキングそのものがナンセンスだと主張する人もいるが、日本が上位だった頃にその人たちは同じことを主張していただろうか?
日本は何と30年前までには毎年トップだったのだ。信じられるだろうか?
「ビジネスの効率性」が51位とのことだが、だれも責任を取りたがらない意思決定の遅さ曖昧さは政治の世界だけではなくビジネスの世界にも蔓延しているらしい。
G7が経済的に「先進」ならば中国やインドが入っていないというのもおかしい。
「先進国首脳会議」は名前を変えて「Group of USA]にすれば即ち[GU Summit」にすればすっきりするんじゃないのか?
何でもかんでも説明的な修飾語を付けるというのであれば、アメリカは単なるアメリカではなく「先住民を殺戮し征服したアメリカは」とか「日本に二発もの原子爆弾を投下したアメリカは」と言ってもらいたいものだ。
ウクライナだって「アメリカとNATOに支配されているウクライナは」と言えばより分かり易い。
国内だってニュースや報道番組では単に「自民党」と呼ぶのではなく「反日組織の統一協会とズブズブの自民党」と呼んでもらいたい。
維新の怪は「第2自民党である維新の怪」と呼ぶべきで、連合は「野党を連合させないための連合」と立ち位置を明確にする修飾語付きで呼べば多くの国民は納得するだろう。
結論
固有名詞に説明的な修飾語を付けるのは一切やめるべきである。
追記
上記日経の記事で東京財団政策研究所 主席研究員の柯 隆氏が日本の競争力の低下についてコメントしている。
分析・考察
競争のない国は競争力が出てこない。ルールやしきたりを重んずる日本では、至るところに既得権益者のバリケードが設置されている。そのバリケードが壊れない社会的背景として、みんなほどほどに現状に満足していることである。すなわち、目の前の秩序を崩さなくても、「安心」して暮らせるからである。これは失われた30年の後遺症でもある。ぬるま湯のなかでのんびり生活して30年。ここで踏ん張って競争しようと思う人が少ない。ごく少数の人は将来の日本を心配して、警鐘を鳴らしているが、ぬるま湯に慣れている大衆はそれに耳を貸さない。
参考
ChatGPTに聞いてみました
質問
日本ではG7のことを「先進国首脳会議」といっています。本来サミットという語句に「先進」という意味があるのでしょうか?
ChatGPTの回答
「先進国首脳会議」という日本語の表現において、「サミット」には本来「先進」という意味が含まれているわけではありません。実際には、「サミット」(summit)という英語は、その語源的には「頂上」「山の頂上」という意味です。政治的な文脈では、サミットは主に首脳会議や重要な会合を指します。
G7(Group of Seven)は、経済大国である主要国7か国(アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本)によって構成されるグループであり、経済政策や国際問題に関する協議を行うための会議です。日本ではこの会議を「先進国首脳会議」と呼んでいますが、これは参加国が経済的に先進している国々であることを示す意味合いが強いです。
つまり、「サミット」自体には「先進」という言葉が含まれているわけではなく、日本語で「先進国首脳会議」と呼ぶのは、参加国が経済的に先進していることを強調するための表現と言えます。