7/11(月)  絶海中津 応制賦三山 | サワラ君の日誌

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僕65歳。隠遁生活。飼い猫14歳。家猫生活。

「新漢詩の世界」(石川忠久/大修館書店)

絶海中津 応制賦三山

熊野峰前徐福祠  満山薬草雨余肥
只今海上波濤穏  万里好風須早帰

熊野 峰前(ほうぜん)徐福(じょふく)の祠(ほこら)
満山の薬草 雨余(うよ)に肥ゆ
只今 海上 波濤(はとう)穏やかなり  
万里(まんり)の好風 須(すべから)く早く帰るべし

〈めも〉
秦の始皇帝のため不死の薬草を求めて旅立った徐福ではあったが、始皇帝の暴政に耐えかねて日本に辿り付き熊野で亡くなったという伝説がある。徐福の持ち込んだ薬草は雨あがりに肥え育った。現在、海上は波穏やかである。風も良し。不死の徐福は速やかに帰るべきだ。

明貿易は室町幕府の財政基盤を支える。室町幕府と明国のパイプは、禅宗の高僧が担った。絶海中津は、禅宗の高僧で、明国の初代皇帝、朱元璋(しゅ げんしょう)にこの詩を贈った。今、中国は元から明に変わり、善政が敷かれている、徐福よ、帰るなら今という、初代皇帝へのよいしょ、太鼓持ちの詩。初代皇帝、朱元璋(しゅ げんしょう)の病的なまでの疑心暗鬼により、政敵ばかりでなく理由なき大粛清、大量虐殺が吹き荒れていた明国ではあったが、朱元璋(しゅ げんしょう)は、この詩をみてたいそう喜び、次の詩を返した。

朱元璋 和賦三山

熊野峰高血食祠  松根琥珀也応肥
当年徐福求仙処  直到如今更不帰

熊野峰は高し血食(けっしょく)の祠(ほこら)  
松根(しょうこん)の琥珀(こはく)も応(まさ)に肥ゆべし
当年 徐福 仙を求めしの処(ところ)  
直ちに如今(いま)に到って更に帰らず

水泳  7/11(月)  2周目
【累計3,306.8キロ 今日の距離4.5キロ、計3,311.3キロ
釧路2937.7キロ ⇒次の目標地点:室蘭3319.7キロ
※ 昨日より、寝違えて首痛し。足しか使えず。