懺悔 | 水沢寛弥の「さんしゃく」

水沢寛弥の「さんしゃく」

俳優の水沢寛弥(みずさわひろや)です。
GFエンタープライズ所属。
1990年4月1日生まれ。出身は富山県。

趣味は、映画鑑賞・服屋、神社巡り。
特技は、バスケットボール・水泳・富山弁・牡蠣むき
ツイッター→@sawadahiroya41
Facebook→水沢寛弥





役者として叶えたい夢は山ほどある。
どれもが大切で愛おしい夢です。

その中でも特に叶えたい、そして早く叶えたい夢があるんです。

それはNHKの朝の連続テレビ小説に出演すること!
朝ドラは物心ついた時にはすでに生活の一部になってました。平日は学校に行く前に観て、休みの日はお昼の再放送を観てました。
「すずらん」から始まり「あすか」や「ちゅらさん」、「さくら」、「まんてん」…観続けてました。

なぜなら祖父が朝ドラが大好きだったからです。



家は母方の祖父母と共に7人で暮らしていました。
両親は共働き。まあ田舎じゃ当たり前です。むしろ専業主婦の方が珍しいくらいです。専業主婦なんてドラマの世界だけだろうと思い込んでた程。
祖父もずっと働いていました。田舎街の商店街のケーキ屋さんでパティシエをやってました。だからクリスマスシーズンのこの頃には祖父と妹たちと一緒にケーキを作ってました。


祖父は毎日休みなくケーキを作ってました。通勤手段は自転車です。雨の日も台風の日も大雪の日も、カッパを着て自転車で仕事場に向かってました。
そんな祖父の楽しみは「わかば」というタバコを吸うことと、もう一つ朝ドラを観ること。祖父はお昼休みになると仕事場からまた自転車を漕いで家に帰ってきて祖母が作る料理を食べる。その時食べながら朝ドラを観る。
朝ドラが終わってニュースになった時、アナウンサーの「こんにちは」という挨拶に必ず「こんにちは」と返すのが祖父のお昼の決まりです。

仕事から帰ってきてご飯を食べて、お風呂に浸かったら自分の部屋へと行ってしまいます。そして床に入りながらラジオを聴きながら眠りにつく。

これが祖父の1日。


ある日、僕がニンテンドー64の「スーパーマリオ64」をやっている時に朝ドラが始まる時間になると、64のコンセントを無理やり引っこ抜いて壊したことがありました。
それほど朝ドラが大好きだったんです。

当時は腹が立って祖父と顔を合わす度にずっと口喧嘩してたなー…
階段の上から椅子を投げられたこともあったっけ(笑)あ、灰皿もあるわ(笑)しかもガラス製(笑)

それほどジジイとは思えない程パワフルでエネルギッシュなジジイでした。






年が経ち、僕が高校受験を控えてた年。いつものように学校が終わって街の育英に向かおうとした時
祖母が「ひろや、おとうさんがまだ帰ってこんがいちゃ」と引き止められた。
祖父は近所の山へ栗拾いに行ったきり帰って来ないらしい。
僕は急いで山へ行きました。

着くと大量の葉に隠れて祖父が倒れ込んでいました。
祖父が言うには急に立てなくなったらしいのです。
その日は家族みんなで「気をつけてよ」と、意外とオッチョコチョイなんだからー!みたいなそんな軽いノリで心配しました。




その日を境に、祖父の足はどんどん悪くなっていきました。
これはおかしい…と病院で検査してもらいました。すると脳梗塞だとわかりました。

日に日に祖父は2本の足で歩けなくなっていきました。杖をついて・・・家族に肩を貸してもらって・・・車椅子に乗って・・・
そして、ベッドの上から動けなくなりました。

その当時僕は、役者になりたい。けれどお金もツテもない。どうすればいいんだ?…と何も行動を起こさなかった。家族に相談しても「自分の顔を鏡で見なさい!なれるわけないでしょ!」と当たり前だけど真っ向から反対させた。今置かれてるそんな不遇な自分に酔ってました。
ほんと、この当時の僕はクソでした。そりゃあ、親戚がみんな俺を嫌うよ。久々に会っても心の底から感じてる嫌悪感が滲み出た顔をしてましたからね。
これに関しては今でもそうか…
とにかく人間として終わってました。なりだけが人間でしたね。



祖父は家での介護が難しくなり病院にお世話になることになった。
僕は毎日じゃないけど祖母を病院に送り迎えしてました。そしてたまに一緒に祖父に会いに行きました。
祖父は体が硬着してて膝が常に曲がった状態でした。
祖母が「おとうさん、ひろやが来てくれたよ」と言っても何も返事がありません。僕が呼びかけても何も返事がありません。

昔は元気いっぱいだった祖父の今の姿を見たくなくなった。でもどこかで祖父は絶対に死なないと思ってた。思い込んでた。思うようにしてた。また会えると思いたかった。


勝手に祖父と約束した。また元気になったらその時に会おうと。

今思えばただ現実から逃避したいだけだった。現実を直視したくなかった。
今の自分の不甲斐なさも見たくなかった。何も行動に移さず、ただ頭の妄想というキャンパスに絵空事を殴り描いてた。そんな自分が嫌いで嫌いで…


妄想するのは部屋じゃない。夜、缶コーヒーを飲みながら、音楽を聞きながら散歩してる時。徘徊と言った方が当時の自分には合ってるのかな。
ある日、hideさんの「DAMAGE」を聴いてたら自然と涙が零れた。
今の自分が怒られてるようなそんな歌詞だったから。
父はよく俺に「情けない」「情けない」とことある事に言ってきた。だからこの言葉が大嫌いだ。自分でも人に言いたくない言葉。
その言葉がずっと頭の中でリフレインして、いつしか悔しさに変わって、生粋のケンカっぱやさも相まって「見返してやる!やってやる!」

「役者になってやる!」

と決心しました。



その日から夢に向かっての資金集め、情報収集をしていきました。


ある日、そのことを祖母が祖父に報告した時
今まで何も返事がなかった祖父が泣いて笑ったよ。と祖母から聞きました。

聞いた当時はそんなベタなドラマじゃあるまいし…と聞き流していました。










バイトしてある程度お金が貯まってきたある日、祖父が入院してる病院から電話がきた。
どうやら祖父は今夜が山らしい。

でも僕は死ぬわけないと思い込んでるし、夢に向かって頑張ってる。だから祖父の命を軽視してた。


夜、また病院から電話がきた。
「今すぐ来てください」

その時、母は1日中祖父に付き添っていて、居るのは祖母と父と俺。
父は仕事帰りに瓶ビールを飲むのが日課だった。当然その日も飲んでいる。
必然と俺が車を運転することになった。だけど俺は行きたくなかったからグダグダしてた。
「早くしろ!」と言われても、靴紐がどうとか言ってタラタラしてた。


車を出して病院に向かい、祖父の病室に着いた。
死んでた。
祖父が死んでた。
俺らが着くほんの少し前に死んだ。

祖母は祖父に寄りかかって泣き崩れてた。

俺のせいで、俺のせいで、祖母は祖父と、祖父は祖母と最後の時間を過ごさせてあげれなかった。


葬式で涙は出ませんでした。流したらダメだと思ったから。



祖父の大好きな朝ドラに出演する。
その時にあの時流せなかった涙を流そうと決めた。
朝ドラに出ることで孝行する。祖父は観ることができないけど、祖母は観れる。

それが僕が叶えたい
叶える夢です!



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