【軍師官兵衛ゆかりの地】

 

黒田官兵衛、秀吉も警戒した

屈指の陰謀家【宇喜多直家】の横にいるのが【おふく】

 

宇喜多直家は将軍となった足利義昭や織田信長

西播磨の赤松政秀と結び、将軍に従わない自分の主君・浦上宗景を倒すべく反乱。

しかしながら、赤松政秀が青山・土器山の戦いで黒田職隆・黒田官兵衛の親子に敗北。

それを好機とみた浦上宗景は弱った赤松政秀の龍野城を攻め、降伏させてしまう。

その後、毛利氏に対抗するために足利義昭の仲裁で和睦し

この際に浦上氏から独立している・・・・とうことは

黒田官兵衛が活躍してなければ宇喜多直家は大名でなかったかもしれない????

 

兵庫県:姫路市青山【青山古戦場】

兵庫県:姫路市【土器山(船越山)】

岡山県:岡山市【岡山城】

 

秀吉は宇喜多直家とおふくの子供を養子にし

その子が豊臣政権の五大老となり関ケ原の戦いで奮戦する

【宇喜多秀家】として成長します。

 

宇喜多家を仲間につけようと交渉しているうちに

秀吉が人妻・おふくを見染めてしまう!(驚)

 

そんな宇喜多直家の横にいた奥方の【おふく】が

湯治に来ていた場所が湯原温泉にあります。


 

宇喜多直家の死後

おふくが病に罹った際、宇喜多秀家が当地に湯屋を設けて療養しました。

「おふくの方」は37日間湯治療養した記載されています。

おふくは才色兼備の女性として知られ、当初は高田城主、三浦貞勝に嫁ぎましたが

高田城が落城すると宇喜多直家の正室として迎え入れられ、そして宇喜多直家が死去すると

豊臣秀吉の側室となったことから戦国時代のクレオパトラな感じです(*'ω'*)

 

image

 

おふくは約1ヶ月の間この湯屋で療養した結果

手足の痛みが消え再び大坂城に召しだしされとされ

秀吉の寵愛されました。(側室ってことやね)

 

宇喜多直家とおふくの子であり

秀吉の養子である【宇喜多秀家】は優秀な大名!

 

関が原の戦いで西軍について敗れ所領を失うまで

岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石の大名でした。

宇喜多秀家は幼少より豊臣秀吉に寵愛され、親子関係となり

秀吉の「秀」を与えられたほどでした。

宇喜多の兵は精強で勇名を響かせたそうで

東軍の猛将、福島正則の軍勢を押し退かせるほど強かったのですが

予備兵力の無い宇喜多秀家の軍勢はやがて消耗し

まさかの豊臣秀吉の一族(小早川秀秋)が裏切って襲いかかってきて

宇喜多家の軍勢は崩壊

西軍の敗北は決定的となりました。

 

岐阜県:不破郡関ケ原町【宇喜多秀家の陣跡】

 

関ヶ原の後、宇喜多家は家康によって改易。

秀家は伊吹山中に逃げ込みますがそこで落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇するも

哀れに思った五右衛門は秀家を自宅に約40日も匿いました

その後は京の太秦に潜伏するも、京都所司代の奥平信昌に発見されるが逃走に成功。

変装して同じ西軍側であった島津義弘などを頼って薩摩国に落ち延び

牛根郷(鹿児島県垂水市)に匿われますが

しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため

島津忠恒によって家康のもとへ身柄を引き渡された。

島津忠恒、並びに縁戚の前田利長の懇願により死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉され

やがて八丈島へ流島の刑になり、そこで生涯を終えました。

 

ちなみに

さるるのルーツは岡山県津山市で

武士の出でしたが関ケ原の合戦以降、没落して帰農(農民)となったことから

宇喜多家の武家だったと推測されます。

 

湯原温泉の有名な温泉場である

 

名泉【砂場】には

 

山田方谷が湯治に来ています。

 

・・・・え?

山田方谷ってダレ?

そんな人がほとんどかもですが

 

【幕末維新ゆかりの地】

 

さるるの大好きな【河井継之助】は

山田方谷に弟子入りしているのです!

 

実は数年前からゆかりの地をヒストリアしているのですが

まだ記事にできておりません。(岡山県高梁市!)

河井継之助を知ったのは司馬遼太郎の【峠】で知るまで知りませんでしたが

その人物を知るなり(歴史小説ではありますが)

さるるは河井継之助の魅力に引き込まれ・・・・


それから数年後に

なんと映画化されるとか僥倖でした!

 

当然、お嫁ちゃんと観に行きました。

 

河井継之助は諸国漫遊の時代

岡山県にも勉強に来て住み込みで勉強していましたが

その時の先生が

 

山田方谷(やまだほうこく)

 

山田家は元は源氏を称する郷士の家でしたが

山田方谷の曾祖父・宗左衛門が長男を勝手に出家させた寺の住職を殺害して自害。

その責として山田家は財産没収の上で追放され

お家再興を願う両親は方谷に勉強させてお家再興をさせるために学問をさせます。

方谷は必死に勉強し、子供のころからその神童ぶりを発揮し

紆余曲折を経て方谷は板倉勝職から苗字帯刀を許され、武士に昇格され

藩校である有終館の先生に任命され、両親の悲願であった山田家のお家再興を果たします。

その後、方谷は佐藤一斎の塾に入門、一斎の門下で方谷はたちまち頭角を現し

一斎塾の塾頭となり、後から入門してきた佐久間象山とともに「佐門の二傑」と呼ばれます。

 

佐久間象山のお墓

京都府:京都市右京区【妙心寺】

 

山田方谷は当時

日本最高の頭脳と呼ばれた佐久間象山と並び称されるほどの人物でした。

そんな山田方谷を訪ねて

河井継之助は越後長岡藩(新潟県長岡市)から

備中松山藩(岡山県高梁市)までやってきますが・・・・。

続きはまたの機会に!

 

 

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