【黒田官兵衛ゆかりの地めぐり】
イメージ 1
 
 
 
【真田丸ゆかりの地めぐり】
イメージ 2
 
 
 
 
宇喜多秀家は西軍の主力として
獅子奮迅の活躍をして迫りくる福島正則の軍勢を後退させます。
関ケ原の戦いは当初、西軍が有利な状況だったのです。
裏切るかどうか迷っている小早川秀秋なんかは宇喜多家秀家の軍勢が優勢で
「やっぱり裏切るのやめよっかな♪」って勝ち馬に乗ろうと必死。
そしたら徳川家康に「はよ約束通り裏切らんかい!」って陣に鉄砲を撃たれて
大急ぎで西軍を裏切ったんよね。(これ諸説あり)
 
 
 
宇喜多秀家(軍師官兵衛)
イメージ 3
 
 
 
宇喜多秀家(真田丸)
イメージ 4
 
 
 
関が原の戦いで西軍について敗れ所領を失うまで
岡山城主として備前美作備中半国・播磨3郡の57万4,000石の大名でした。
宇喜多の兵は精強で勇名を響かせたそうです。
宇喜多秀家は幼少より豊臣秀吉に寵愛され、親子関係となり
秀吉の「秀」を与えられたほどでした。
東軍の猛将、福島正則の軍勢を押し退かせるほど強かったのですが
予備兵力の無い宇喜多秀家の軍勢はやがて消耗し
まさかの豊臣秀吉の一族(小早川秀秋)が裏切って襲いかかってきて
宇喜多家の軍勢は崩壊。
西軍の敗北は決定的となりました。
 
 
 
こんなけ裏切られたらそりゃ勝てんわ
イメージ 5
 
 
 
 
関ヶ原の後、宇喜多家は家康によって改易されます。
秀家は伊吹山中に逃げ込みますが、そこで落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇するも
哀れに思った五右衛門は秀家を自宅に約40日も匿いました
その後は京の太秦に潜伏するも、京都所司代の奥平信昌に発見されるが逃走に成功。
変装して同じ西軍側であった島津義弘などを頼って薩摩国に落ち延び
牛根郷(鹿児島県垂水市)に匿われる。
しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため
島津忠恒によって家康のもとへ身柄を引き渡された。
島津忠恒、並びに縁戚の前田利長の懇願により死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉され
やがて八丈島へ流島の刑になった。
 
 
宇喜多秀家は84歳で死去。
一緒に流された長男と次男の子孫は八丈島で血脈を絶やさず
明治時代になって宇喜多家の罪は許されました。
 
 
 
宇喜多秀家の陣跡
イメージ 6
 
 
 
すぐそばには「浮田家」という石碑もあったん。
八丈島に流されてから改名したらしい・・・・んで、島流しから50年
なんだかんだ援助を受けながら宴とかしてたんだってさ。
(宇喜多秀家が死んだ時、徳川家は4代将軍の時代でした。)
 
 
さるる
「ここでご先祖様がいたんやなぁ・・・・。」
 
 
さるるのご先祖様は武家だったそうです。
殿様が没落し、さるるのご先祖様は農民になった、と聞いたことがあります。
小さい頃は何の気なしに聞いていたんですけど
こうやって歴史に興味を持ち、多少は詳しくなってきた時に、ふと思ったのです。
岡山県で【殿様が没落】といえば宇喜多家じゃなかろうか?
だとすれば、さるるのルーツは宇喜多家の武士だったのだろうと推測できる。
さるるが小さい頃に立派な鎧があった記憶があります。
ひいおばあちゃんの家からは刀やお金が見つかって
岡山市が持って行っちゃった、みたいな話も聞いたことがあって
もうこれは確定だと思ったわけです。
 
 
遠いご先祖様
さるるがこうやって、関ケ原の地にやってきましたよ。
そう思いながら手を合わせました。
 
 
さて、次の目標へ!
自転車でまたがり、出撃します!
そしてその時
 
 
 
転倒して左足首を捻ってしまう。(激痛)
イメージ 7
 
 
 
骨が折れた、と思ったほどの激痛。
声も出ませんでした。
心の中で「ああ、これでこの旅も終わったな・・・・・。」と思いました。
しかもヒデちゃん、その様を撮影してから駆けつけてくれる。(笑)
「いや、どうしようっかなって迷ったんやで?」
でもちゃんとブログネタを押さえてから駆けつけてくれるあたり
さすがやな~と思いました。(*'ω'*)痛
 
 
ちなみに1年ほど前のことですが
いまでも左足首がなんぞの時は痛みます・・・・。
それほどの痛みでした♪(笑)
 
 
 
関ケ原シリーズ、まだまだ続く!
イメージ 8