産まれ故郷の東京を離れ、二時間半後、那覇空港に到着した。

出てくる時は寒かったけど、2月初旬の沖縄は少し暑いくらいだった。

降り注ぐ太陽がまぶしかった。


キャリーケースに、背中には大きなバックパック、一本のアコースティックギターを片手にゆいれーるに乗り込んだ。

那覇の景色を眼下に眺めながら、半年前にアキと別れた美栄橋駅に向かった。


美栄橋でゆいれーるを降りて、早速アキに連絡を入れた。

牧志のアキの家まで、重い荷物を抱えながら歩いた。


アキの家のそばで、仕事に向かう途中のアキと再び出会った。


「ほんとに来たね~」


笑顔で迎えてくれた。


家が決まるまでの間、アキの家にしばしお邪魔させてもらう事になっていたので、とりあえず鍵を借りて、アキの家に辿り着いた。


重い荷物を降ろし、ふぅ~っと一息ついた。

タイ旅行の疲れも抜けきっていなかったし、移動の疲れもあって、しばしの休息をとった。

アキの家でお世話になったのだが、少し時間をかけて家と仕事を探してと思っていたのだが、まぁ色々理由があって、急いで出なきゃ行けなくなってしまったので、まず早急に家探しをすることになった。

アキの名誉の為に行っておくが、自分とアキは気心の知れた、そして頼れる友人という関係だ。


とりあえず早めに家を決めなくてはならなくなった自分は、賃貸情報誌を買い、レンタルバイクを借りて、不動産屋へと向かった。

色んな場所から考えたかったんだけど、結局そんなに時間がなかったので、以前居た宜野湾市真志喜にエリアを絞った。

不動産屋にアポを取り、数件の部屋を見に行った。

初めての物件探しは、ここはいやだなぁってのはあったけど、どこを見ていいのか分からず、決めかねた。

痺れを切らした営業マンは、「何がいいですかね?」と聞いてきた。

自分でも何がいいってのも特になかったんだけど、とりあえず視界が開けた所がいいなと思い、一件目で見た宜野湾バイパス沿いの1ルームマンションに決定した。

6階建てのマンションの3階。

目の前には宜野湾海浜公園が広がり、大きな空が魅力的だった。

急ぎだった事もあって、とりあえず早く住める様に御願いし、その4日後くらいに晴れて入居となった。

こうして私の沖縄生活の拠点が出来上がった。


ここに住んで、まず困った事は、移動手段が無いと、どうにも生活できないということ。

とりあえず足をと思って中古バイクを探した。

何件かに電話して、見に行って、試乗させてもらったりして、いざこれでと御願いした時に、初めて知ったことがある。

「住民票がないとバイク買えないよ~」

あ、そうなの。

ってことで住民票とか特別移すつもりは無かったんだけど、こんな事情で世田谷区民から宜野湾市民になることになった。

市役所で変更の手続きをした帰り道、『俺、宜野湾市民になってるよ!』と何故かテンションが上がった。


それから何も無い部屋に必要最低限の生活道具を揃え、一通り生活できる状態にした。

こうして真志喜での生活が始まった。

沖縄に着いてからわずか1週間とちょっとのことだった。








チェンマイから、日本に戻った私はわずか4日後の沖縄出発を控えていた。

その間、色々準備しなければならなかったはずだが、結局は友人達と過ごした。

なかなか会えなくなるかも知れないから、とにかく会える人に会っておこうと思ったのだ。


そうこうしている間に4日間はあっという間に過ぎていき、出発の前夜を迎えた。

これといって気持ち的に大きな変化があったわけでもなく、ちょっと旅行にでも行くかのように淡々と準備をしていた。

だが部屋にあった多くのものを片付け、ダンボール詰めする作業は、予想外に時間がかかり、結局は夜中まで準備にかかってしまったのを覚えている。


出発の朝。

25年間慣れ親しんだ、色んな思い出がつまった我が家を出た。

荷物を抱えた私を父親が駅まで車で送ってくれた。

こういう時はいつも母親の出番だったけど、この時は父親が動いてくれた。

どんな気持ちで息子を送り出したんだろう。

その時は、なんとも思わなかったけど、今振り返ると自分の方向付けについてどう思っていたのか、気になる所である。

自分は、産まれ故郷を離れる事が悲しいわけでもなく、沖縄での生活に魅力も感じていたが、ものすごくテンションが上がっていたわけでもなく、自分で決めた沖縄移住という出発を淡々と受け止めていた。

いつもの下北沢駅から、いつもの電車に乗って、私は地元を旅立った。


4度目の沖縄への出発。

これが自分の沖縄移住生活の始まりだった。

ずっと行きたいと思っていた、行ったら必ず離れたくないと思っていた沖縄へ、ついに旅立ったのである。



わずかな就業期間で再びプーに逆戻りした自分は、確かに最初は自分の事を嘆いて途方に暮れていた。

ただそれも数日間の話。

次は沖縄に住みに行くんだということを固く決意していた。

体の異常と、時折押し寄せる精神的なしんどさもあったけど、とにかく沖縄にどうやっていくか、そのことばかりを考えていた。

自分が今一番求めている事は沖縄に行くことだってのが明確になっていたから、以前より気分は前向きだった。

というかやらなければならない事があったから、そこで気持ちを制御できていたのかもしれない。


沖縄に出発する日も決まり、大体の計画がたった。

出発までに少し余裕があったので、その前にとりあえず世界でも見とくかと思い、父親の友人の住むタイはチェンマイに行ってみる事にした。


往復のチケットとパスポートを急いで作って、とりあえずタイへ行く事にした。

宿は父親の友人宅に泊めてもらえるということだったので、着替えだけを準備してタイへと飛んだ。


タイへ行くのも、海外へ一人で行くのも、もちろん初めてだった。

ただこの旅で、一人でも結構何とかなってしまう事を知った。

そして一人旅行が好きになったのも、この旅がきっかけだった。


6時間のフライトを終え、バンコクへと降り立った。

チェンマイへは、乗継が必要だったのだが、どうやって次の飛行機に乗るのか分からなかった。

とりあえず通りすがりの空港職員につたない英語で、声を掛けた。

なんとなくではあったけど、大体理解できて無事に次のステップが見えた。

「なんだ結構話せるじゃん」

と自分でも少し自信がついたのだった。


さらに2時間飛行機に乗り、チェンマイに到着した。

空港で迎えてくれた中年の男性が、細田さんだった。

細田さんはチェンマイのタワーマンションを借りて、悠々自適に暮らしている人だった。

チェンマイ空港から、初めてのソンテウに乗り、中心部へと向かった。

自分が予想していた、田舎な雰囲気は無く、チェンマイの街並みは意外と発達してて、大型のマーケットや、白人の姿が目立った。

チェンマイの初めての夜は、ナイトバザールの広場でビールを飲み、そして高級ホテルの地下のライブハウスで更に酒を飲んだ。

移動疲れと酒の酔いも回り、初夜はくたびれてぱたっと寝てしまった。


チェンマイでは、細田さんのおかげで地元の子とも接する機会が会ったし、色んなところに連れて行ってもらうことが出来た。

一人では行きえなかった所へも行く事が出来た。

最初の何日かは、細田さんの所にいたのだが、自分のしたかったスローペースな過ごし方もしたかったというのと、せっかくだから一人で異国を歩いてみたいというのもあって、ありがたいお気遣いに感謝しつつも、自分は一人街を歩き寝床を探した。

『地球の歩き方』で宿を探し、飛び込みで泊まれるところを探した。

英語なんて大して出来ないはずだったけど、部屋も取れたし、大して何も困る事は無かった。

誰かといると自分より出来る人に頼ってしまいがちだけど、一人だと自分で何とかするしかない。

そんな状況が自分を動かし、何でも一人で出来るようになった。


チェンマイで地元の人と触れ合う事で、色んな事を学んだ。

まだ10代の二人に将来は何になりたいか聞いてみたところ、会社に勤めたいって返事が返ってきた。

日本だったら会社に勤めるのなんて普通に出来ることだったりするけど、こっちじゃそれすら憧れの事なんだなということを知った。

みんなタクシーの運転手したり、飲食店で働いたり、物を売ったりして暮らしてる。

そんな中で会社勤めというのは憧れらしかった。

その子の返事に文化、風習の違いを感じた。


高みを目指しすぎていた自分は、この地でもっとリアルな生活があるということ思い知った。

みんな今を生きているんだと感じた。

生活の為に、今目の前の自分に出来る仕事をすること、それって働く事の原点なのかもしれないと感じた。

そして生活の為に、働ける場があること自体が、幸せな事なのかもしれないと。


大型のマーケットがあったりする中、食料市場は本当にアジアな雰囲気をかもし出していたし、歩道には屋台が出て、埃が舞う中、食事をしてる家族がいたり、日本には無い光景を見る事ができた。

そんな中を一人歩きながら、チェンマイの街の香りを楽しんだ。


目にした事が無いものを見る事、困った状況を自分で打破する事、いろんな意味でこのチェンマイ旅行は成功だった。

違う文化、生活に触れることも出来たし、新たな自分も見つける事が出来た。

アジアなら自分の英語が通じる事も、自信になった。

チェンマイから多くのものを持ち帰る事ができた。

咽かえるほどの暑さのチェンマイを後に、私は2月の寒い東京に戻っていった。