ぼーっとできない | 人生いろいろ

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自分の過去を冒険して文字に残したいと思いつき、ここに記します。ネタがないときには過去~現在~未来と自由に行き来します。

電車の座席に座っていた。駅について出入口の扉が開くと、トートバッグを肩にかけて高いハイヒールを履いたお洒落な女性が、前の座席に座った。と同時にバッグからスマホを取り出して、延々と画面とにらめっこ状態だ。横を見ても若い女性のほぼ8割以上はスマホを見ている。いや、女性に限らず若い世代はスマホをいじっている人が多い。今やありふれた光景かもしれないが、この光景を普通と感じるのは、現代社会なのかもしれない。

「ぼーっとできない」
今や、一人でいるときには、ほとんどの時間はスマホを触っている。食事の時も、テレビを見ていても。さらには、二人以上でいるときにも、それぞれがスマホを見ている。せっかくのデートでもレストランで料理が来るまでの時間に、会話するでもなくスマホを見ている。歩きながらも、自転車に乗りながらも見ている。電車の運転手さえも運転中に見ている。それほどまでに脳を支配してしまったスマホは、もう自分の内臓であるという歌さえある。

ぼーっとする時間は、現代の若者にはないのかもしれない。何も考えずにぼーっとする。この時間に何かとてつもない「ひらめき」が生まれることがある。私も、過去に何か問題にぶつかって解決策が見出だせない時に、このぼーっとしている時に、「あっそうか!」とヒントがひらめくことがあった。何も考えていないようで、脳は何か解決策はないか働いているのだろうか。突然前が開けることがあるのは事実だ。

だが、このぼーっとできない人は、常にスマホの画面に脳が動かされ、他のことをしようとしてもできないのではないか?何か壁にぶつかると、どうしたらいいか思い悩む前に、スマホで検索して類似したそれらしい答えを見つけて、解決したように思っていないか? しばらく考えて脳を働かせ、ヒントを見いだすことが私は重要だと感じる。自分の経験や知識からヒントを見出せるほど、まだ長く生きていないというかもしれないが、脳をそのように訓練させることが大切と感じる。

昔の家なら縁側に座って、お茶でも飲みながらぼーっとできる。でも 縁側でなくともベッドで横になって、あるいは、ソファーに寝転んで、何もせずにぼーっとする時間を持つことは今の時代には必要かもしれない。