皆さんはこのお饅頭(お菓子)を見たときに、なんという名前が頭に浮かびますか?
くまは「どりこのやき」・・・・・
皆さんはなんという名前が頭に浮かびますか?
解説によれば
正式名称を「今川焼」と言い?
その地方々で 二重焼・大判焼・回転焼・太鼓饅 など々の呼び方があるお菓子。
(この記事を書いた人は、広島か島根・山口出身だということが良くわかります)
とあり、地域・地方、また有名なお店により、さまざまな名前で呼ばれていました。
どりこのやき・・・・どりこ?って何?
検索してみました。
善光寺から駅へと続く通り沿い。門前でも駅前でもない場所に、「長野名物 元祖 どりこの焼」というでっかいのれんつきの店があります。いつも気になっていましたが、長野名物にしては、ほかの場所で見たことがありません(あったら教えてください)。思い切って「どりこの焼」を買うことにしました。
1個は75円で、予想通り、今川焼のようなあずきの入った食べ物のようです。店に入ると、おじさんがゆるやかなスピードで奥から登場。あらかじめつくってあった、ぬるい「どりこの焼」をくれました。
思い切って、「どりこの焼」の由来をおじさんに聞いてみると、「父親がつけたので分からない」といわれてしまいました。父上は故人のようで、由来はヤミの中です。味はやっぱり今川焼のような感じで、つぶあんがおいしかったです。店内にはイスと机がありますが、1人前(5個)食べないと座ってはいけないようでした。座るのもたいへんです。ちなみにだれもいませんでした。
どりこという言葉ですが、車で走っているとき、須坂に確か「どりこ」という居酒屋風の店があった気がします。そうすると、「どりこ」の焼なのでしょうか。
ちなみに、くまが子供の頃、上記のお店との関係は分かりませんが
須坂市ににもどりこの焼を売るお店がありました。
どりこの - Wikipedia
より抜粋
どりこのは昭和時代
前期に大日本雄弁会講談社(講談社
)から発売された、滋養強壮
を謳った清涼飲料水
。
医学博士
の髙橋孝太郎
は疲労回復のための研究を行っていた。そんな折、栄養補給にブドウ糖
の摂取が最も効率的であるとする、高名な生理学
者アーノルド・ドーリック
(de:Arnold Durig
)の論文にヒントを得て、5年の歳月をかけて「含糖栄養剤」(1927年
(昭和2年)12月17日
に特許
取得)という飲料水を開発し、「どりこの」と命名する
どりこの」の名はドーリックの「DURI」、髙橋孝太郎のイニシャル「KO」、一番弟子の助手の中村松雄
のイニシャル「N」、さらに3人の助手に共通するイニシャル「O」をつなげたものである。「どりこの」の原料は砂糖
とグルタミン酸
であったが、髙橋は製法を秘密にしていたことに加えて、関係書類をすべて焼却してしまったため、詳細は不明である。
色はヤクルト
の色に近い琥珀色
で、成分の大半がブドウ糖と果糖
という非常に甘いものであり、カルピス
の様に水や牛乳で薄めて飲用した。髙橋は「どりこの」を商品化する考えは持っておらず、病人や肉体疲労時の健常者などに分け与えていたが、その味にひかれた人々がこぞって「どりこの」を求めるようになる。個人応対では対応しきれなくなり、1929年(昭和
4年)に、銀座三越
と資生堂パーラー
で販売されるようになる。三越では濃縮液の状態で1瓶95銭という大変高価な価格にて販売されていた。
同1929年(昭和4年)9月19日 、当時講談社の社長だった野間清治 が髙橋邸を訪れ、「どりこの」を初めて試飲した。甘党 でもあった野間は「どりこの」を気に入り、翌1930年 (昭和5年)に髙橋と販売契約を結び、12月1日 に「大日本雄弁会講談社商事部(当初は代理部)」から全国での販売が開始された。一ビン450㏄入りで1円20銭と、牛乳が一ビン6銭、コーヒーが一杯10銭程度であった(1銭硬貨は現在の100円前後の貨幣価値があり、1円札は現在の1万円前後の紙幣価値があった)時代としては破格の値段であった。
昭和の初めごろ、坂付近に「どりこの」という名の清涼飲料水を開発した医学 博士が屋敷をかまえたので、誰いうとなく「どりこの坂」と呼ぶようになったといわれている。それまでは池山の坂といっていたという。
設置者: 大田区 設置日: 昭和六十年三月 ..
この「どりこの」が匂うのですが、詳細は不明です。