演歌は晋平から始まった
中山晋平は善光寺平の北、千曲川下流東側山麓の長閑な丘陵地帯にある日野村(現中野市)の出身。
近年、この日野村の一番標高の高い処に、日帰り温泉施設の”ぽんぽこの湯”が造られました。くまひゃんは、ここの露天風呂からの眺めがとても好きです。(安いんですよ)
西に善光寺平、その真中には千曲川が遠々と流れ、目を上げると、その先には北信五岳の山々(飯綱山、戸隠連邦、黒姫山、妙高山、斑尾山)が個性豊に聳えています(今ごろの季節は、特に夕焼けが最高です)
先日もキノコ狩りの帰りに(いつもの”湯っ蔵んど”ではなく、気分を変えて) チョッとひと風呂。船頭小唄など、口ずさみつつ・・・・晋平(先生)もこの眺めを思い浮かべながら作曲したのかも・・・と・・・・安息な時間を過ごしてきました。
船頭小唄。1921年(大正10年)
作詞 野口雨情(1882~1945)
作曲 中山晋平(1887~1952)。
己は河原の 枯れ芒
同じお前も枯れ芒
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れ芒
死ぬも生きるも ねえお前
水の流れに 何變ろ
己もお前も 利根川の
船の船頭で 暮さうよ
枯れた眞菰に 照らしてる
出島の お月さん
わたしやこれから 利根川の
船の船頭で 暮すのよ
芒(すすき) 變(「変」かわ) 眞菰(まこも) 潮來(「潮来」いたこ)
私の小中学校時代は、歌謡曲やフォークソングなどをお昼の放送に流す事や、バス旅行などの時の、歌集に入れる事が禁止されていましたが、今は如何なんでしょうか?
この時代はこうしたはやり歌を、学生が歌うことさえ禁じていたと、聞きます。でありながら、テレビも、ラジオも雑誌さえ、ろくに無い時代、どのように拡がって行ったのでしょうか。
この歌のヒットから、日本独自の音階であるヨナ抜き音階は、大衆に受け入れられ、指示され、特に演歌として成長します。演歌は晋平から始まったと言えます。