我が思い」を捨てるということ――浄土真宗の自然観
自分の思い通りにしたいと願い、思い通りにならない現実に苦しむ人が多いように思います。しかし仏教では、「我がはからいを交えないこと」こそが自然であり、他力であると説かれます。本日は、唯円による『歎異抄(たんにしょう)』の一節をもとに、「自然」と「他力」の本質について深く味わってみたいと思います。
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目次
- 1. 自然(じねん)とは何か――仏教における「自然」の意味
- 2. 他力(たりき)の信仰とは――自力を捨てるという決断
- 3. 「我が思い」によらない生き方――自由と安心の道
- 4. 唯円(ゆいえん)のまなざし――師・親鸞(しんらん)と共に歩んだ信仰
- 5. 仏教が示す自然の生き方――現代に活かす智慧
自然(じねん)とは何か――仏教における「自然」の意味
・我がはからいを交えないということ
仏教でいう「自然(じねん)」とは、一般的な自然現象のことではありません。「わがはからいを交えない」ことを意味しています。つまり、自分の思い通りにしようとする意図や欲を差し挟まない状態のことです。
これは受け身で生きることではありません。むしろ、自らの意志によらず、あるがままに任せる姿勢を指します。そこには、自己を超えた「如来(にょらい)」の働きを信じ、委ねるという信仰が根づいています。
・自然は他力である
唯円(ゆいえん)は、「自然とは、他力にてまします」と語っています。他力とは、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)にすべてを委ねる生き方です。
人は、どれほど努力しても思い通りにいかないことがあります。そのとき、「私が何とかしなければ」という我執(がしゅう)を手放し、仏の力に身を任せること。そこにこそ、他力の救いがあるのです。
他力(たりき)の信仰とは――自力を捨てるという決断
・自力にこだわる人間の苦しみ
現代社会では、「自分の力で何とかするべきだ」と教えられがちです。成功も失敗も自己責任とされる風潮の中で、人は常に不安と競争にさらされています。
そのような社会で育つと、無意識のうちに「私が頑張らなければ」「私が正しいはずだ」と、自力(じりき)にこだわる心が強くなっていきます。しかしその自力こそが、実は苦しみの原因になっているのです。
・仏の本願に身をまかせる
親鸞(しんらん)は、煩悩(ぼんのう)深い私たちが、自らの力で悟ることはできないと見抜きました。そして、阿弥陀仏の「必ず救う」という本願にすがる生き方――他力本願(たりきほんがん)を示しました。
それは、自分の努力を放棄することではありません。むしろ、努力することすら仏の導きと見るまなざしを持ち、「すべては如来の御計らいの中にある」と受けとめる心の転換なのです。
「我が思い」によらない生き方――自由と安心の道
・コントロールできないことを受け容れる
私たちは、日々の暮らしの中で、他人の言動や結果を思い通りにしようとして悩みます。しかし、それらの多くは本来、私たちの力ではどうにもならないことです。
仏教は、コントロールできない現実を受け容れる道を説いています。「我が思いによらない」世界があると知ることは、自分の小さな世界から解放される第一歩です。
・如来の義に気づくとき
唯円は、「如来の義があると知るまで、人は我が思いが捨てられない」と言います。如来の義(ぎ)とは、阿弥陀仏の救いの誓い、すなわち私たちをありのままに受け容れる働きです。
このことに目覚めると、自分の正しさにこだわる心がゆるみ、他人を許し、自分をも許すことができるようになります。仏のまなざしの中にあると知ることで、人は安心の中に生きることができるのです。
唯円(ゆいえん)のまなざし――師・親鸞(しんらん)と共に歩んだ信仰
・唯円とは何者か
唯円は、親鸞の直弟子であり、親鸞の教えを最も深く理解し、それを後世に伝えた人物とされています。彼の記した『歎異抄(たんにしょう)』は、親鸞の死後に広まった誤解や異義を正すために書かれたとされており、今なお多くの人の心に響く仏教書です。
その筆致には、師を敬い、深く理解した弟子としての謙虚さと責任感があふれています。彼が説いた「自然」と「他力」は、親鸞の教えそのものであり、時代を越えて生きる私たちにも、心の支えとなる智慧を与えてくれます。
・親鸞の教えを忠実に伝える
唯円は、師・親鸞の教えをただの言葉として伝えるのではなく、自らの信仰体験を通して語っています。「自然とは他力である」と説いた背景には、唯円自身が「我が思い」を超える経験をしてきたという深い実感があります。
彼の文章には、現代人が忘れがちな「聞く」という姿勢が宿っています。仏の声に耳を傾け、師の教えに真摯に従い、他力の道を歩む――その生き方は、今の私たちにも重要なヒントを与えてくれるのです。
仏教が示す自然の生き方――現代に活かす智慧
・手放すことで見えるもの
私たちは、結果や人間関係、未来への不安にしがみつきます。その根本には、「私の思い通りにしたい」という心があります。しかし、仏教は、その思いをいったん手放してみることを勧めます。
手放すとは、諦めることではありません。握りしめていたものを一度ゆるめることで、別の景色が見えることがあります。心の中の「我」が弱まるとき、他の命や働きと繋がっているという感覚がよみがえります。
・「生かされている」という気づき
仏教の教えに触れていくと、自分の力で生きているのではなく、無数の命や支えによって「生かされている」ことに気づかされます。呼吸ひとつ、食事ひとつとっても、自分ひとりの力ではありません。
このような気づきは、自分の存在に対する見方を根本から変えてくれます。孤独や不安がやわらぎ、目の前の出来事に対して感謝の心が芽生えてきます。そして、「今、ここ」にある命を丁寧に生きようという姿勢が生まれてくるのです。
最後に
「自然とは、わがはからわざるをいうなり」。この言葉にある通り、自分の思いによらないところに、仏のはたらきは息づいています。自力で何とかしようとする苦しみを手放し、他力のまなざしに身をゆだねるとき、人はようやく安心の地に立つことができます。
仏の智慧は、特別な人のためにあるものではありません。煩悩に満ちた私たちのためにこそ、阿弥陀仏の本願は開かれています。唯円が伝えたように、ありのままの自分で立ち止まり、「我が思い」を静かに見つめてみてください。
その静けさの中に、仏の声が、必ず届いているはずです。