昔の特撮やアニメはなぜあんなに同題マンガと別物だったのか | KILL YOURSELF

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実は原作改変にあらず 昔の特撮やアニメはなぜあんなに同題マンガとは別物だったのか

 

 

「昔のTVアニメや特撮番組は、マンガ原作とは全然違う内容だ」という人がいます。確かにそうなのですが、それには深い理由がありました。

 

 まず1960年代くらいまでの技術では、マンガを忠実に実写映像で再現することは難しかったといえるでしょう。忠実に再現という点では、TVアニメの誕生まで待たねばならなかったわけです。

 

 その意味においては、1963年から放送開始した『鉄腕アトム』が、原作マンガに近づいた最初の映像作品といえるでしょう。もっとも総監督が原作者である手塚治虫先生で、制作は虫プロダクションなわけですから、原作に近いのは当然なのかもしれません。

 

 実際、同時期の手塚先生のマンガ実写化作品となった『マグマ大使』(1966年)は、原作では登場しない怪獣たちが毎週登場する特撮ヒーロー作品となっています。しかし原作と違っていた部分があっても、子供たちから高い人気を誇った作品でした。

 

 ちなみに手塚先生は、TVアニメ以前に実写化された『鉄腕アトム』(1959年)について、原作のイメージとかけ離れたことに不満を抱いていたとのことですが、この実写版『マグマ大使』に関してそういった話はなく、一定の評価はしていたのでしょう。

 

 これとほぼ同時期に放送開始したのが、水木しげる先生が原作マンガを描いた『悪魔くん』の実写作品です。この作品にはさまざまな逸話があり、なかでも大いに注目すべき点は、マンガと映像作品の二人三脚がここから始まったともいえる制作システムでした。

 

 本作のプロデューサーを務めたのが「東映」にいた平山亨さんです。この作品が平山さんにとって初プロデュース作品となりました。もともと水木先生の大ファンだった平山さんは積極的に各方面に働きかけ、その結果、さまざまな意見を統合して東映としては初めてのTV特撮作品となる本作を生み出します。

 

 水木先生は「自分の原作にとらわれないでいい」というスタンスで、ここから本作は当時の怪獣ブームに近づけた作品となりました。逆に水木先生もTV版の「ペロリゴン」のパロディとして、「ビチゴン」というセルフオマージュを描いたこともあります。

 

 こういった原作者との二人三脚で制作した次の作品が、実写版『仮面の忍者 赤影』(1967年)でした。この作品には複雑な経緯があり、本来予定していた白土三平先生原作の『ワタリ』のTVシリーズの代わりとして生まれたものです。

 

 この『ワタリ』が諸事情から制作を断念されたことで、白土先生と並んで忍者マンガの第一人者である横山光輝先生に原作を依頼することになりました。そこで横山先生は原作マンガとなる『飛騨の赤影』を手がけます。そして、TV放映に合わせてマンガのタイトルも『仮面の忍者 赤影』としました。

 

 この時も平山さんは忙しく各方面に動いていたそうです。何しろ同時期には『キャプテンウルトラ』も担当しており、関東と関西を行き来するのは日常茶飯事でした。もっとも、そのおかげで平山さんは別の企画にも関わることになります。それが同時期に放送された特撮作品『ジャイアントロボ』でした。

 

 平山さんによると、『ジャイアントロボ』は『赤影』の打ち合わせの際に偶然、横山先生の仕事場で目にしたそうです。まだ連載前だったことからいち早く実写化を申し出て、横山先生に許諾を得たとのこと。そういった経緯から、平山さんはマンガ版にもアイディアを提供したそうです。

 

 こういった平山さんの制作スタンスが大きく花開くのは1971年のことでした。

 

 平山さんは、いまなお続く特撮作品「仮面ライダー」シリーズの第一作『仮面ライダー』(1971年)も、プロデューサーとして作品制作を手がけています。そして、その原作者となったのが、漫画家の石森章太郎(後に石ノ森章太郎へ改名)先生です。

 

 ファンの間では周知のことと思いますが、『仮面ライダー』の原型である『マスクマンK』の頃には石森先生はまだスタッフとして参加してはおらず、『仮面天使(マスク・エンジェル)』、『十字仮面(クロスファイヤー)』という企画案を経て、これ以降に参加しました。

 

 石森先生のデザインを得ることによって企画案は大きく動き出し、『仮面ライダー』へとつながっていくわけです。その流れのなかで、石森先生が描くマンガを講談社のマンガ雑誌「週刊ぼくらマガジン」(後に廃刊、これにともない「週刊少年マガジン」へ移籍)にて連載することになりました。

 

 つまり『仮面ライダー』のマンガ版は、原作というよりも「原作者によるマンガ」といったポジションにあります。こういった背景を知らないと、「TVとマンガで内容がどうして違うの?」ということになるのでしょう。

 

 そのため、あくまで子供向けとして爽快感を追求した特撮版と、そのTVで描けないようなシリアスなドラマを描いた「萬画版」という、それぞれのジャンルを生かした作風となったわけです。こうしてお互いに影響を与え合うことで名作『仮面ライダー』は生まれました。

 

 この『仮面ライダー』の成功が、後に続いていく東映制作の特撮番組の基本パターンとなります。「原作:石森章太郎」「プロデューサー:平山亨」という黄金の組み合わせはこのようにして生まれ、次々と新たな名作を誕生させていきました。

 

 こうした成功例が影響したかは不明ですが、この時代に似たような経緯の作品があります。それは永井豪先生が原作を担当し、東映動画(現在の東映アニメーション)が制作したTVアニメ『デビルマン』(1972年)です。この『デビルマン』も原作者と制作会社による二人三脚からスタートしました。

 

 もともとは永井先生が「週刊ぼくらマガジン」で連載していたマンガ『魔王ダンテ』をTVアニメ化するというところから企画は始まったそうです。これが紆余曲折あって「悪魔が主人公のヒーローもの」という骨子のもと、『デビルマン』が誕生しました。

 

 こういった経緯から永井先生によるマンガ版は、「週刊少年マガジン」で連載が決定します。『デビルマン』が『仮面ライダー』と大きく異なった点は、マンガ版とTVアニメ版に類似点が少ない点でしょうか。これに関しては作家性の違いが大きく影響しているかもしれません。

 

 永井先生はライブ感を重視していて、結末を考えずに面白い方向性を常に模索して作品を作り上げます。代表的な例として、TVアニメ版には出ない「飛鳥了」の存在が挙げられるでしょうか。もともと永井先生は殺す予定だったと述べています。それゆえTVアニメ版では登場していません。

 

 しかし、この飛鳥了の存在がマンガ版では物語に大きな影響を与えたわけで、そう考えると存在そのものがふたつの作品の分岐点ともいえるでしょう。逆にTVアニメ版では徹頭徹尾、デビルマンをヒーローとして描いた娯楽作として高い評価を得ることとなりました。そして、この『デビルマン』の成功が、後にロボットアニメブームという大きな波を生み出す『マジンガーZ』(1972年)を誕生させるわけです。

 

 現在では人気マンガをTVアニメ化するという手法がほとんどで、こういった映像作品と作家の二人三脚のような作品はそれほど多くありません。70年代という作り手側も手探りだった時代ならではの手法なのでしょう。逆を言えば、ひとつの作品で同時にふたつの物語を楽しめたといえるかもしれません。

 

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 以上、ニュース記事を引用させてもらったが、昔のTVアニメや特撮が漫画原作と異なるケースはよくあったのではないだろうか。『鉄腕アトム』がアニメ放映される前に実写化されたが、大抵の人は「何じゃこりゃ?」と思ったはずだ。


 それと『仮面ライダー』の漫画版はちゃんと見た事はないのだが、こういうのは『テレビマガジン』や『てれびくん』等に連載していたイメージが強い。でも、これについては作画は別の人が描いているのが大半だ。漫画に登場するキャラは実写とは全然異なるケースが少なくない。


 最後に漫画には登場しないアニメのオリジナルキャラの作品も結構ある。『北斗の拳』のシンの部下であるジョーカーはアニメオリジナルだし、『DRAGON BALL』の大界王様もそうだ。あまり挙げるとキリがなくなるのでこの辺にしておこう。