前回の、自己評価と自己愛について、とも少しリンクするんですが、他人に意見を求められた時とかに立場を曖昧にしがちなところについて。
私はここ数年ずっと、自分の感情を絞ることを避けてきた。
簡単な例を出します。「感染対策に気を遣うことなく、遊んでいてコロナに罹ったら本人のせいか」
私は、"わざと"答えを"出せない"。自分がどちらの立場に立つか、決められない。
本人のせい、だとも思う。
罹らないための努力を怠っているからだ。
不要不急の外出を控えていれば、感染対策をしっかりしていれば、感染しなかったかもしれない。
だから、本人のせいだ、と言う人に共感ができる。
一方で、本人のせいではない、という考えも理解できてしまう。
どんな対策をしていても、罹るときは罹ってしまう。
長い間、コロナのためにやりたいことを我慢するのは無理だ、というのも一理ある。
だから、感染した人を責めるのは違う!という声に共感してしまう。
この時の、私の気持ちがわからない。
「あなたはどう思うの」「場を収めようとしなくていいから、あなたの考えを聞かせて」と言われた時、本当に困る。
数十分かけて自問自答を繰り返しても、答えが出せない気がする。
単に「どう思う?」と聞かれたら、私は状況によって答えを変えるんだろう。また、曖昧にぼかすような言葉を選ぶと思う。
例えば、実際に遊んでいて感染してしまい、落ち込んでいる人がいれば「感染者も多いし、行動に関わらず時間の問題だったと思うよ」、
感染対策にすごく気をつけている人の前では「確かに、すごく我慢している分他の人が遊んでいて拡がっていくのは腹立たしく思うよね」、みたいな?
ちなみに、「きのことたけのこどっちが好き?」「好きな服装はどんなの?」等はもちろんすぐに答えが出せるし(真にどちらでもいいから)
そもそも優柔不断ではないから買い物をする時に迷うことはあまりない(選択の結果は私にしか影響を及ぼさないから)。
そう、自分の答えを持てない時は、「自分の答えによって他人の反応が変わる」ことを問われている状況が多い。
だから、人に嫌われるのが怖いから答えを出すのを避けているのかな、と思った。
「人に嫌われるのが怖いから自分の意見を持たない」というフレーズだと、さも私が本当は自分の意思を持っていて、社会性のために抑圧しようとしているように聞こえるけど、そうじゃない。
私自身の感覚としては、諦め、とか敗北後の眺め、に近い味がするな、って感じ。
なんだろうな、なんなんだろう、ってしばらく考えてだんだけど、最近気がつきました。
他人と意見が対立しない自分になりたかったみたい。
自分と違う意見の人と向き合ったときに、本心から相手の考えを尊重して道を譲れる人になりたかったんだと思う。
元々私は気が強い方だから(中高の人たちにはそれで嫌な思いをさせてばかりだったんじゃないかな)、多少の客観性を得て、このことを死ぬほど恥じてからは、軽く脅迫めいた自省をしました。それで赦されるようなものでもないんですが。
その結果、無意識領域へのメタ・アップデートを経て、いつのまにか本心から他人の意見を優先できるようになりました。
自分の意思が迷子だから、が理由な時点で本質的成長じゃないのかな、と思ったけど、細かいことは気にしないことにする。
