「自己評価は低いけど自己愛は強い」という言葉を聞いて、ああ痛いとこつかれたな、と思った。
他人と話すのは嫌いだ。苦手、ではないと思う。嫌なだけ。会話を重ねていくと出てくる見栄とか媚びに向き合いたくない。他人に良い顔しようとしてる自分を見ると、嫌悪感で気が狂いそうになる。謙虚でいられないんならもうお前おしまいだよ、って脳内のどっかの人格に言われて、確かにな、と思う。
言葉選びもたぶん上手じゃない。咄嗟に出た言葉に後悔するのが怖くて、プライベートな?会話では大抵曖昧な立場をとるようになった。他人と関わるのが嫌、出来る限り一人でいたい。他人と深い関係を築きたくない。現代の若者なので。
たぶん他人より「恥ずかしい」と思うことが多い。すごい些細な、例えば人前で鼻をすすることが恥ずかしい。何なら、こういう気取った文章をメモ帳に書き溜めてるのも死ぬほど恥ずかしい。恥と自己顕示欲、承認欲求とのせめぎ合いです。知らない人にかく恥は多少は恥じゃないから助かる。
友達から言われた「あなたって〇〇だよね」を、悪意があろうとなかろうと、大事に大事に抱きしめて蒸し返す。蒸し返して蒸し返して、今は違う、大丈夫、って安心しようとする。その主観に基づくご判断は信用していいんでしょうか。でも、その主観以外に価値観の物差しを持っていないんですよね。
ここまで全部、対人関係のことなのに自分にしか目が向いていない。他人の顔色を伺うのも、他人に嫌だと思われる自分に耐えられないから。執拗に「他人と違うところ」を消そうとするのは、恥ずかしい自分を受け入れられないから。最終的に自分にしか目が向かないところが、自己愛の強さ故なんだな、って気がついてしまって、かなり落ち込んだ。私は全然優しくなかった。
そういう自分を許容できないけど許容できない自分を…って話になると永遠のループなので、「そんなもん」「そういうもん」について書くときにまた考えることにします。
もう一つ。私は常に自分のことを分析したがる。考え方の癖について。多用しがちな言葉について。容姿について。根がネガティブだし変なところ完璧主義だから、いつも否定と自己嫌悪のオンパレードです。限界まで自分のことを否定して、マシになるための対策をとって、やっと誰かに許されたような気持ちになる。自己否定を精神安定剤にしてるし、生存の免罪符にもしてると思う。(生存したいわけではないはずなんだけど)
向上心って言えば聞こえがいいけど、なんかそんな綺麗なもので済ませちゃいけない気がしています。
そして、この「許されたような気持ちになる」瞬間とか、「生存の免罪をされた気になる」瞬間、「精神が安定する」瞬間の、赦しを得たっていう錯覚とか、布団にいる時みたいなあったかい感覚に包まれる時が、自己を愛してしまっている瞬間なんだと思う。自己愛の誕生ですね。この瞬間に執着して自己否定を繰り返してるから、やっぱり自己愛が強いんだろうな 嫌だ。気持ち悪い。
自我に対する嫌悪感を忘れないでいることが、自己を批判し続ける唯一の方法だと思うので、忘れないように頑張りたい。
