知ってますか。おらほのドン「藤原相之助」 | ミ―ナに恋をして

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誰も読まない、誰も覗いてくれない、寂しくてしょうがない、甘えたい、すがりたい、泣きたくてしょうがない、でも、誰も助けてはくれない。そんなブログを書いてみよう。

大河ドラマ「八重の桜」も最終盤を迎えた。


前回の「福島の八重桜に申し訳ないっす」と同様な話で申し訳ないが、今日は「人と人とがつながっていたこと」をご紹介したい。


おらほの自慢話になるが、お付き合い願いたい。




人をいたわる心が、


人をいつくしむ心が、


人をほほえましく思う心が「つながっていたのです」



       田沢湖の美女「辰子姫」
       御座の石神社境内



今年の大河ドラマ「八重の桜」で「おらほの秋田藩が落ちた」との驚くべき場面を見た、同役(どうやく)(友達)のおはなしです。


我が秋田藩の裏切りにかわいそうで、無道(むど)ちらだと申し訳ない気持ちを白状したのです。


方言「むどちら」とは「道徳に背くことをよくよく考えること」


無道(むどう)つらつら感ずること」なのです。




「じつは」


秋田藩(あきたはん)砲術所(ほうじゅつしょ)浪士(ろうし)22名が、仙台藩使節12名を惨殺(ざんさつ)斬首(ざんしゅ)、さらし首にしてしまったという、秋田藩の裏切り変心事件が過去にあったのです。


会津(あいず)戊辰(ぼしん)戦争(せんそう)の時に、薩摩(さつま)長州(ちょうしゅう)連合軍に対抗して「奥羽(おうう)(えつ)列藩(れっぱん)同盟(どうめい)」が結成されました。「会津藩と共に」一緒になって最後まで戦うことを約束した同盟書です。


わざわざ仙台から、約束を交わした盟友(めいゆう)として、「なんとかお力添えいただきたい」との使者に対して、ひそかに、「斬首・惨殺・さらし首」という残虐行為が決行されたとあります。



そんな遠い過去のことを覚えていた同役が、


自分のこととして、


会津藩に共感し、


同情した言葉が


「むどちらでかわいそうだ」という言葉なのです。


この「今ともに生きている意味」を「今までの自分の生きざまの不甲斐なさを恥じながらも」自分の言葉で、自分を見事に表現してくれたのです。


ほんとに個性的で、独創的な人です。


くやしいかな、そんな同役が(ねた)ましく(うらや)ましい限りです。


土臭くて、ドン臭い、「田舎根性」丸出しのおらほの大将に恐れいった次第です。



付箋 


知ってますか。今日のテーマはここからです。


「仙台戊辰史」の著者「藤原相之(あいの)(すけ)という人を。


何が因果なのか、地元秋田県「田沢湖町出身」であるという。


慶応3年・生保内村相内端刑部屋敷で生まれとある。


相之助が産まれた年、「南部藩」が現在の県境「仙岩峠」を越えて生保内に攻め入ったとあります。


会津の「日新館」と同じような塾が角館町にもあり、そこで学んだともあります。「静修塾」という名前らしい。


その後、盛岡の岩手医学校に入り、東北新聞社記者となる。



現在の「同役」と「相之助さん」が、つながっていたのです。


面白いことです。楽しいことです。微笑ましいことです。


摩訶不思議な、因果なことです。


(じゅう)の教え」を、おらほの角館の「静修塾」でも教えていたに違いありません。


やっぱり「ならぬことは、ならぬものでございます」と。




歴史認識なんていう難しい話ではありません。


ただ、ただ、「むごいことをしてしまった」


「申し訳のないことをしてしまった」という過去の怨念から逃れたいだけなのです。


「会津藩」や「仙台藩」そして「八重さん」に、本当に申し訳ないことをしてしまったとあやまりたいのです。


つながっていたいのです。相之助さんと同役が。


あなたにも、この気持少しでも分かっていただけたら嬉しいです。


「ドンと晴れ」



赤倉武弘