佐藤武久のブログ 「日本・モンゴル往来日記」 -43ページ目

「北越雪譜」羽子撞(はごつき)

2019/01/30

「北越雪譜」 羽子撞(はごつき)
現代語訳:佐藤武久

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羽子撞(はごつき)
私の郷里の言葉でははねをつくとは言わず、はねをかえすと言います。うちかえすという意味だと思います)
 
 
江戸で正月をした人の話しによると、町中に見上げるばかりに松竹を飾った下で、美しく着飾った娘たちが彩り鮮やかな羽子板を持って並び立ち、羽根を撞く様子はいかにも大江戸の春というに相応しいものであったそうです。
わたし郷里の羽根突きは、辺鄙なところなので、このような艶姿はありません。
正月は使用人たちも少しばかり許しが出て、遊びをするので、羽子を撞こうとして、まず適当な場所を見立てて雪を踏み固め、相撲の土俵のようにします。
羽子は空木(うつぎ)を一寸ほどの長さの筒状に切り、これに山鳥の尾羽を三本差し込みます。
江戸の羽子に較べたらずいぶん大きいものです。
これを撞くのに、雪を掘る木鋤(こすき)を用いて、力任せに撞くので、大変高くまで空にあがります。
このように大きな羽子なので、子供たちは加わらず、屈強の男女が混じって、ハバキや藁沓などを履いてこの遊びをするのです。
一つの羽子を並んで撞くのですが、間違えて取り落とした時は、始めの決りごとにしたがって、雪をかけられたり、頭から雪を浴びせられたりします。
その雪が、襟や懐に入って冷たいことこの上もないので、大勢の人はこれを見て大笑いをします。
窓からこれを見ているのも面白いものです。
             
山東京伝翁がその骨董集(上編の下)に下学集(かがくしゅう)を引用して、羽子板は文化十二年より三百七十年ほど前、文安のころにはあったもので、それよりももっと前にあったかもしれないが詳細は分からないと述べています。
また、下学集には羽子板にハゴイタとコギイタと二つのかなをふっているので、こびの子と言うのも羽子のことだと書いています。
わが越後の国にも、江戸のように女の子が羽根を撞く地域もあります。
 

玉鷲初優勝 おめでとう!

2019/01/27
玉鷲初優勝 おめでとう!
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どんど焼き 2019/1/13

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謹んで新年のお慶びを申し上げます。2019

Шинэ жилийн мэнд хүргье!  2019

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(S.Sumber画)

夫婦揃って喜寿(77歳)を迎えました。
Нөхөр эхнэр маань энэ жил 77 настай.

電子年賀 2019

謹んで新年のお慶びを申し上げます。2019

Шинэ жилийн мэнд хүргье!  2019


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元旦は珍しく青空、ガーデンテーブルの上に今朝まで降った雪、巨大な鏡餅に見立てて、長崎から送られてきた葉付き蜜柑を飾ってみました。

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2018年7月20日 モンゴル国ウランバートルのザイサントルゴイにて





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百匁柿の収穫 3018年10月22日

3018年10月22日

いつもより早めだけれど、さわやかな秋晴れとなったので百匁柿をもぐ。

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古文書「冨士山人穴双紙」その3

「富士の人穴物語」の解読を続ける。(15)

またここ見るに、手足を斧まさかりにて、伐り落して責らるゝ所あり。これは用にもたゝぬ、木芽の枝葉を伐る者どもなり。または、万(よろず)のものゝ命を取り、朝夕殺生ばかり好むものなり、と仰せける。またこの苦を受く事、五十歳が程なり。

この所を先行きて見ければ、草堂に餓鬼ども集り、腹は太皷のごとく、首は糸より細し。頭は茶碗のごとく、泣かれとすれど、声も出ず。喰い物も前に有れども、火焔燃え上りて喰えず。飢え渇えて餓鬼の苦しみ、目も当てられず。直れ極楽なり。これこそ餓鬼道なり。娑婆にて財宝を持ちながら、利銭の事ばかり思い、喰い物も有りながら喰わず。人にも猶々くれず。物毎に賤しくくれたる者なり。人は福貴の家にあらば、人にも物を施し、情けをかけ、善根に申すに及ばず、慈悲第一として、福貴なるものより、貧なるもの罪軽し。仁田、娑婆にて能々語れと仰せける。

またここに罪人の口に米を含ませ、その口を縫い塞ぐ。鼻の穴より米をこぼして、涙苦しむなり。これは人の米を盗み、我が身ばかり、妻子などにもくれたる者なり。鼻の穴より出るを見るに、皆黒金の丸色なり。人は仮初めにも心曲るは成仏する事なし、と大菩薩仰せける。

またここを見れば罪人の口を引き捌(さば)き、両の腹に長さ八寸ばかりの釘を打ちて責めるなり。これは人と頷(うなづ)き合い、人の悪事を云い散らし、人の中を悪口したる科なり。人はただ我よし人よしと心得、我れ、人、違(たが)わぬものと知るべし。人の悪事、必ず/\云うべからず。罪深きものと知るべし、とぞ浅間仰せける。

又向う見れば、畜生道とて、罪深き人、色々の畜生となり落つるなり。牛馬や色々獣、鳥、虫となり、迷い行くなり。またこの所行きて見れば、罪人に重き荷を付けて、高さ十二町ばかりの釼の山へ、登れ/\と責めるなり。登らんとすれども、手足末々に切られて登れず。これは、怨みも無き人をかどわかして、人買いに売る、人商いをしたる者なり。幾千万となく、人の論々に憂目を見たるなり。必ず人商いすべからず、と仰せける。

また先を見るに、罪人の腰より下は血汐になり、腰を釘にて打たれ、前より胴腹を釼にて切り落すなり。これも女なり。娑婆にて男の家に入るべしと思い、憶い人なりと胎し子を下し捨てたる女、この苦患を請けるなり。子を下す医者も七口の釜あり。この女、一万三千年が間、責めらるゝ。産ざる子を孕む事なけれ、とぞ大菩薩仰せける。

 

 


 

「富士の人穴物語」の解読を続ける。(16)

また先を見るに、顔ばかり人のごとくにて、五体は馬牛の姿なり。これは娑婆にて、親また兄弟とちなみの念頃せし者なり。または伯父、叔母、姪。甥などと心を掛け、さては尊き出家を落ちたる者、皆々畜生道へ落るの苦を請けるなり。よくよく娑婆にてこれを語れ、と仰せける。
部(ぶ)- 全体をいくつかに分けたそれぞれの部分。

また先方を見るに、黒煙さつ/\と燃え立ち、火事のごとし。その中に、大勢の声して。弓矢、鉄砲、太刀、長刀の音、夥しく、この内で切りつまろつゝ、追いつ追われつ、様々と泣き悲しむなり。あれは修羅の巷(ちまた)とて、修羅道地獄なり。あのごとく二千歳がほど責めるなり。必ず剣難を払うべし、と大菩薩仰せける。
切りつまろつゝ 慣用句としては「こけつまろびつ」がある。意味は似たようなものか?

先々、一百三十六地獄をば残らず見たり。これから閻魔の庁躰を見るべし。仁田趣(赴)け、と仰せける。御供申し行くかと思えば、程無く閻魔の庁に着きける。凡そ百間ばかりの赤金の大門あり。その内に大王の御殿あり。
赤金(あかがね)- 銅の別称。

さてまた、次に十王有様、仕置く如くの冥官立つなり。さてまた九上申御筆取りの役なり。黒金小金の帳面に付け給うなり。皆々冥官立ちて、一間づゝも御坐の内におわしますなり。善根をば小金の帳に付け、常張の鏡に向わせける。七才よりなしたる罪科、あり/\と見えたり。
有様(ありさま)- 物事の状態。ありよう。
冥官(みょうかん)- 地獄の閻魔の庁にいる役人。
常張の鏡(じょうはりのかがみ)-(仏)地獄の閻魔の庁にあって、死者の生前の善悪の行為を映し出すという鏡。浄玻璃の鏡。

明らかなる事、悪を只今するは、今年罪人多く有りける。鬼ども待ち受けて、罪人渡し給え/\とて、わん/\と吼えるなり。罪人ども頭を付け申す様、我ら娑婆にて一心に諸仏を御頼み申しました。我らをば助け給えと申す。十王仰せけるは、はかなき者どもかな。何とて娑婆にて後生の事、仏の事忘れしぞや。地獄とて外には更になきものぞ。ただ己れが心で己れを責めるなり。我身、我と火の車に乗る事を知らぬ、はかなさよ、と十王仰せけるなり。罪人も先ず当る身の程、悲しみ泣きたまうなり。またわれは何とて、跡弔(とぶら)う子の一人も持たざるとて、鬼ども早や引き立て行くなり。

その鬼どもを見るに、めんずおんつ阿房羅刹、めづおづ、赤鬼、黒鬼、青鬼、色々の鬼ども、罪人を十王より請け取り、仁田が見廻りし地獄へ引き立て行くなり。その地獄にて、切苛むもあり、臼に入れ搗くもあり、釜に入れ煎るもあり、火の穽(あな)に入るもあり、鉄炮、鉾などにて責めるもあり、釼にて指し貫くもあり、色々様々の地獄へ落されて責めるゝなり。
めんずおんつ -(「めづおづ」とともに、)雌雄。

 

 

 

 

 

 

 

 

「富士の人穴物語」も今日を含めて残り三回となった。(17)

人が亡くなると、49日まで7日毎の法要が7回続き、さらに100日、一周忌、三回忌と続けられる。閻魔の庁にて、亡者を六道のどこへやるのか、地獄なのか極楽なのか、この10回の法要は、十王がそれぞれ行う審理の日程と重なっている。追加審理の三回を加えて十三王とする場合もあるが、七回忌、十三回忌、三十三回忌の法要と重なる。つまり、これらの法要は亡者の審理を少しでも甘くするための、娑婆からのメッセージである。「富士の人穴物語」では、それらの法要が亡者の審理に大変影響を与えると強調している。

また九将神の手前を見るに、死にたる者の跡々を、能々弔(とむら)うべしと、必ず七日/\を待ち給うなり。また百ヶ日を能く弔うべし。また先の一周忌を弔うべし。待ち給うなり。若し弔わなければ、地獄道に極(き)まるなり。

鬼ども云うを聞けば、何時まで待たせ候と呼ばわる。十王達、罪人を不便(ふびん)と思し召し、七年忌を待ち給う。鬼どもにも待てと仰せける。それにても年忌、法事無き時は、十三年忌を待ち給うなり。それにても問い弔い無き時は、是非なく鬼どもに渡し給うなり。この時、罪人手を合わせ、御助け給えと歎くなり。作りたる罪なれば、その科の次第/\に引き分け、地獄は落ちるなりと。
問い弔い(といとむらい)- 追善を営むこと。冥福を祈ること。

浅間大菩薩仰せけるは、如何に仁田能く聞け、仏事、法事をするにも、心麁末(そまつ)、損徳(得)考えてしては、娑婆の義理ばかりにて、この方へ更に届かぬなり。損徳を構わず、我身のため、子孫のため、またまた後生のためとて、心能く弔らわば、亡者罪障消滅とて、亡者の罪軽くなり、仏果に至りて、極楽往生疑いなし。
罪障(ざいしょう)-(仏)往生・成仏の妨げとなる悪い行為。
仏果(ぶっか)-(仏)仏道修行の結果として得られる、成仏という結果。

また娑婆にて志し、仏事、法事をすれば、それを分かちて、亡者達外に罪薄くなり。六道四生皆々法事を請け、歓び給うなり。別けて、四十九日が大事なり。法事無き時は四十九の節々に釘を打つなり。四十九日を問いければ、四十九観の仏、歓び給うなり。
六道四生(ろくどうししょう)-(仏)六道における四種の生まれ方。すなわち胎生・卵生・湿生・化生をいう。

また仰せける。仁田能く聞けよ。それぞれ善根すれば、女房腹立て、倶々地獄に導くなり。かようなるもの、早く火の車にて迎え取るなり。一人志し無き者あれば、皆々それに引かれるなり。能々心得べし。女、酷う信なきは、縁に付き、男の心傾き安し。悪事を進める女房、仏法の敵なり。早や捨つべし。進めて功徳、倶に成仏して、一つ蓮の後生、先生なり。この事を娑婆に帰りて、能々語り聞かせよ、と大菩薩、仁田に仰せられける。
先生(せんじょう)- 前世。

 

 

「富士の人穴物語」の解読を続ける。(18)

さてまた、いざや九品の浄土、蓮台、花の台(うてな)、極楽世界を見せんとて、御供申すに、こゝに小金の橋あり。この橋は善人の極楽浄土へ参る橋なり。燈明輝きて、光明四方へ離れ、うんまん遠ければ、香薫、金銀の砂、珊瑚琥珀の法殿、迦陵頻伽の天人舞い下り、花降りかゝれば、廿五菩薩、音楽の御声、面白き事、言葉に述べ難し。
九品の浄土(くほんのじょうど)- 極楽浄土。往生する者に九種の差異があるところからいう。
迦陵頻伽(かりょうびんが)- 極楽浄土にいるという想像上の鳥。美声によって法を説くとされ、人頭・鳥身の姿で表される。

またこの仏の御住家、諸仏の御住家、阿弥陀の御住家、釈迦の御住所、薬師の住所、勢至、観音、地蔵、その外、諸仏、菩薩の住家残り無く拝せたり。これまた汝が不便(ふびん)なりとて、ここに住家は叶わぬ事なり。いざや本途に帰さんとて、弥(いよいよ)念頃に仰せける。さてまたこの双紙を渡し給うなり。
本途(ほんと)- 本来の道。本来のありかた。
双紙(そうし)-「絵草紙」「草双紙」などの略。

汝に拝せける地獄、極楽、自ら双紙に書きて取らするなり。これを起りの、眼に納め、三十一才と云う年、伊豆の山にて日本へ弘むべし。地獄、極楽と有りと云えど、終に見たる者なしと云う者に、この双紙を見さすべし。また仁田へ娑婆にて能く語れ。

地獄の数が一百三十六地獄有り。それに閻魔大法王、九垩神、五道の冥感、皆々仏の化身なり。無間地獄、叫喚地獄、阿鼻地獄、大叫喚地獄、等活地獄、みょうかつ地獄、紅蓮地獄、大紅蓮地獄、釼の山と云うなり。また極楽は九品の浄土、釈迦如来の浄土と云うなり。獄卒の数が八万四千あり。中にも思(おぼ)しき鬼は、牛頭、馬頭、おんづ、めづ、五色の鬼、阿房羅刹なり。
九垩神(きゅうあくしん)- 意味不明。「垩」は「白亜」で白土の意。(例、白亜の殿堂)
冥感(みょうかん)-(仏)知らないうちに神仏が感応して加護や利益を授けること。冥応。

娑婆にて機嫌よく後生願う者、早や極楽の仏の帳面の内なり。また悪心の者、明け暮れ喧嘩口論して腹立てる者、地獄の罪人の帳に記すなり。娑婆にて心の後生、慈悲有る人、この事にて福貴なり。悪事災難なし、また明け暮れ悪心の者、今生は貧なり。病の難尽きぬなり。
今生(こんじょう)- この世。この世に生きている間。

娑婆にて人を打擲するは修羅道なり。我も喰わず、人にもくれぬは餓鬼道なり。また親兄弟と夫婦事する者は畜生道なり。この娑婆は六道地獄の内なり。人道地獄なり。この身も身より、餓鬼、畜生、修羅道へ落ちるなり。それゆえ、上人、知識、尊位、尊官の人々、後生大事と願うべし。
知識(ちしき)-(仏)仏法を説いて導く指導者。善知識。

 

 

 

 

「富士の人穴物語」の解読を続ける。今日で読み終える。(19)

また釈迦如来もこの事を悲しみ、八宗九宗、八万諸行を作り給うなり。早や後生を願いて、仏、菩薩の仏心に成れと教え給うは、この地獄の不便(ふびん)さの余りなり。もしまた己れが心、己れと責め、地獄極楽無しと云う者、人道地獄なり。必ず地獄は知れぬなり。仏、菩薩と成る事は地獄をば離れがたし。この道理を知れば、急ぎて後生の志し有るべし。
八宗 -(仏)平安時代までに日本に伝わった仏教の八つの宗派。俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の南都六宗に天台・真言を加えたもの。
九宗 -(仏)八宗に浄土または禅を加えた九宗。

この娑婆を長きものと思えば愚かなり。芭蕉の風に破れぬ内と知るべし。また稲妻や打火、風の前の灯火、草の葉の露、また灯すより消し安し。夕べに物を云い翌(あくるひ)に死する命なり。今日は人の上、翌(あく)るは身の上、無常の迎いにて死すと云う便り、今に知れず。
芭蕉の風に破れぬ内 芭蕉の葉は葉脈に沿って裂けやすいため、短い期間の譬え。
打火(うちび)- 火打ち石で打ち出す火。切り火。

娑婆にて能きと云わるゝ人、この世より生き仏なり。悪しきと云わるゝ人、目の前の鬼なり。我も人も替らぬ人と思へ。因果にて善悪の境界を暮すと思ふべし。それ故、先の世を思い、因果の道理を考え、能々後生願うべし。

仁田へ、娑婆に帰り、この事を能くも/\語り聞くに、然れども、汝三十一より前には、たとえ頼家が偽(いつわ)れども語るな。もし語ると汝も、また頼家も命を取るべし。いざや早々日本へ帰るなり、と岩屋の内にて、この双紙と諸共に御暇を下さりける。

仁田四郎忠綱、十七日と申すに、鎌倉へ月夜を待つ心持ちにて、漸々と江嶋弁天の御穴にこそ、出でにける。急ぎて頼家公の御所へ参り、この由、申し上げけるに、鎌倉殿御歓び限りなし。諸大名達も仁田を見て、優曇華の花の咲きしに異ならず。皆々一統、残らず御歓ぶ。
優曇華(うどんげ)- インドの想像上の植物。三千年に一度花が咲くと言われ、極めてまれなことの譬え。

仁田四郎、君の御前に畏まり、人穴の次第を申し上ぐべしと存じ候に、大菩薩の御法度蒙り申し上げ難し由、申すにて、鎌倉殿仰せけるは、如何に仁田、神妙なり。さてまた岩屋の内、如何なる不思議有る。とく/\語れと仰せける。仁田思うさま、様子を申せば、大菩薩の御法度蒙るなり。申さねば君の御前云えぬなりと、兎角申す事、跡先なり。しかしながら、たとえ大菩薩の御法度蒙り、この命取るゝとも是非なし。申し上ぐべしと思い切りて、さてさて岩屋の内、不思議なる事様々と、一々次第に申しける。

岩屋の事、申すも果てぬに、空より雷電の如く呼ばわりけるは、我れ今、自らが惣係り詰めて蹴り殺すなり。同頼家も命を取るべしと呼ばわりたり。鳴り静まりてぞ、失いけるは恐しかりける次第なり。鎌倉中の諸大名、この事、骨髄に徹し給う。

この草紙聞く人、富士浅間様を一度拝すべし。この草紙読む人、聞く人、後生大事と知るべし。少しも疑い有れば、大菩薩の御罪蒙るなり。この事、有り難く思わば、富士浅間大菩薩と八返唱え、この草紙を読むべし。又々信心して聞くべし。この草紙、正治元年四月三日、鎌倉二代目の大将軍、源頼家公の御前より、諸人の御岩見のため、御弘め下さる。疎かに思うべからず。駿河国富士人穴草紙、くだんの如し。

以上で、富士の人穴物語を終る。

古文書「冨士山人穴双紙」その2

2018/10/13

「富士の人穴物語」の解読を続ける。(9)

 

これから延々と続く地獄の有り様。読んで行く自分も、まさかこんな所へ踏み込もうとは思いもしなかった。仁田が尋ね、浅間大菩薩が答える地獄の責めの数々。往昔の人々の想像力には全く脱帽である。思うに「富士の人穴物語」は、地獄絵図を目の前に僧が行う絵解きそのもではないかと思った。ともあれ、少なからず気が重くなるが、読み進めて行こう。

また先へ行きて見るに、河原の罪人を、鬼どもが胴骨に八尺ばかりとも見えける釼の差貫き、これもまた釼の山へ上れ/\と責めるなり。後ろより流る血、紅の滝の如くなり。大菩薩に尋ね申すに、あれは娑婆にて、主親の前を、後ろ闇しまたは逃げ走り、主や親に悪しく当りたるものなり。
後ろ闇し(うしろぐらし)- 心やましい。裏切る気持ちがあるのではないかと疑わしい。

また向うを見渡せば、海の浪高く、荒気なき浪の上に、通れ/\と鬼ども鉄棒にて三々に打擲(ちょうちゃく)するなり。通らんとするに通るべき数、更になし。また尋ね申すに、大菩薩仰せける。あれは娑婆にて物参りなどする者に、関を居(す)え、人を通さず、人に荒く当りしものどもなり。譬えば通すまじき所にても、物参りする者には、忍び道など教え通すものなり。人は慈悲の心持つ事肝要なりとぞ、浅間仰せける。
荒気ない(あらけない)- ひどく荒々しい。粗暴である。

また先へ行きて見れば、罪人の首に縄を掛け、四十九の骨々に長さ三尺ばかりの釘を打って責めるなり。あれは如何なる罪にて候や。あれは娑婆にて、決断と云う役目を仕りたる武士なり。依怙贔屓(えこひいき)して、人を罪科に落したる報いなり。決断と云う役は、心々直からず、罪深き事あの如く、能々心得べしと、大菩薩仰せける。

また行けば、六つある道へぞ出でける。六道とて、道六つあり。ここに美しき法師六人立ち給うなり。各々錫杖を持ち給う。如何なる法師と尋ね申すに、これこそ六道施他地蔵大菩薩たちなり。慈悲深き御仏たちなり。この所にて善悪を撰び、六つの道へ道引き給う。

仁田四郎、尋ね申すは、六道の巷(ちまた)とは如何なることをや申し候ぞ。然らば、罪人の善悪にて、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道とて六つあり。ここの菩薩の御前へ、数万の罪人来て、願いの文字を書き、宝冠を冠り、念仏題目を書埋める経帷子を着て、枯れたる木の枝を突き、よろ/\とよろぼい集りて、宜しき道へ導き給いと、頭を地に付け、手を砂まぶれにして歎きける。悪しき亡者をば悪道へ導き給う。鬼は待ち受け、小腕引き立て行きける。大菩薩、仁田に仰せけるは、汝も娑婆に帰りては、南無地蔵大菩薩と朝夕に唱え申すべし。極楽に向け取り給うなり。
宝冠(ほうかん)- 額につける三角形の布。
小腕(こがいな)- 腕の、ひじより先の部分。

 

 

「富士の人穴物語」の解読を続ける。(10)

またこの所過ぎ行きて見れば、いやに恐しき責め有り。五体は青き大蛇、また山かかし、頭は美しき女房なり。髪をば下り乱れ、男を中に取り巻き、赤舌を出すやら/\、泣きつ笑いつ、男を呑ん/\と奪い合う。男は悲しや、口説きの涙を垂れ、うめき悲しむなり。これは娑婆にて、女二人に心掛け、女房にせんと、二道を掛けしものなり。必ず二道を掛けるべからず。何様思(おぼ)しき事なり。このかしの内、三百年が程なりと、浅間仰せける。
かし(枷)- 刑具の一。首や手足にはめて、自由に動けないようにするもの。かせ。

また急ぎ行くは、罪人の目玉を繰り出し、足を裾(すそ)にて、づた/\に引く所あり。これは親、主人を白眼して腹を立て、主、親を足蹴にせしものなり。親、主を疎かにすべからず。早や天道のばち当り、死しても地獄に落ちて、あのごとく責められるなりと、大菩薩仰せける。
天道(てんどう)- 天の神。宇宙の万物を支配する神。おてんとさま。太陽。日輪。

次の「上野国鎌田庄臼井と云う村」ように、具体的な地名を入れるのは、絵解きにリアリティを持たせるためのテクニックであろう。実際の絵解きでは相手の在所に近い地名をアドリブで入れたのかもしれない。また、この項の口調は「雨にも負けず」の逆バージョンに聞こえる。熱心な法華信者だった賢治が、地獄絵解きの口調を、パクったわけではないだろう。

またこの所通り、先へ行きて見れば、罪人に縄を千筋ばかり付けて、鬼ども大勢にて引き行くなり。仁田申しけるは、あの罪人は如何なる科にて候や。あれは上野国鎌田庄臼井と云う村のなり。あの者は人の能き事を毀し、悪く思い恨み、朝夕、下人内など、その意に喰い物まであてがい、或は打ち苛み、人に悪く当たり、堂宮寺参りもせず、僧法師に供養もせず、朝夕欲心ばかり嫁し、冥利ばかり思い、慈悲の心は更になく、腹を立て、我儘不道にし、人が寺へ参り後生願いをと云えば、又後の世よりこの世が大事と云う。この様な事を人にも教えなどせし尼なり。頓而(やがて)逆様(さかさま)にして無間地獄へ落とすなり。これらは十王の詮義にも及ばず。死ぬと鬼ども、火の車にて迎いるなりとぞ、浅間仰せける。
厄(やく)- わざわい。災難。
あてがう 相手の求めによらないで、こちらで適当に与える。
苛む(うちさいなむ)- 苦しめる。いじめる。
冥利(みょうり)- 知らず知らずの間に神仏から受ける利益や恩恵。また、善行の報いとして受ける幸福。
十王(じゅうおう)-冥土で、亡者を裁く十人の王。閻魔王はその中心。亡者は順次に各王の裁きを受け、来世の場所を定められるという。
火の車 地獄で、火が燃えているという車。火車(かしゃ)。獄卒が生前悪事を犯した亡者をこれに乗せ、責めたてながら地獄に運ぶ。

 

 

「富士の人穴物語」の解読を続ける。(11)

仁田申しけるは、さてさて今まで罪人幾ばくとも無く見る所に、男の落ちる地獄は少なし。先ずは女ばかりなり。浅間大菩薩仰せけるは、さてとよ、悪人が女に生れ出ずなり。朝夕と人の家を兼ね、心愚痴にして男の内に暮らせども、我儘もならず、幼少より愚痴文盲なる事多し。
幾ばく(いくばく)- どれほど。
兼ねる(かねる)- 遠慮する。気兼ねする。
愚痴(ぐち)-(仏)愚かなこと。無知によって惑わされ、すべての事象に関して、その真理をみない心の状態をいう。

その、虫となり、その虫の涙積りて月の障りと成りて、身を汚(けが)すなり。男に近付かぬ日、月に七日あり。壱年には八十四日なり。この内は我が家を出、別家に暮日なり。男と誓わしめ、罪に益(ますます)仏神三宝を汚すなり。能々心付き、諸事汚すべからず。朝夕慈悲をなすべしと浅間仰せける。
業(ごう)- 人が担っている運命や制約。主に悪運をいう。
暮日(ぼじつ)- 日のくれ。ひぐれ。

又この所を急ぎ行きて見てあれば、黒金の山の上に、黒の折りの様なる道有り。幾千万ともなく並び据えたり。その上の空に、黒金の網を張り、鬼ども火を起して入道を引っ張り合うるなり。登せむ声こそ急なり。仁田尋ね申すに大菩薩仰せける。あれは、世を捨て顔の唐人入道なり。諸(もろもろ)乞食をしながら、人をむさぼり、人をたらし、誠ありしげに見せしものなり。人の心指しの施しをせず、人を貪りたが艱なり。唐人と身を遣りし人、後の世を大事と願うべしと、仁田に、語り聞かせよと浅間仰せける。
黒金(くろがね)- 鉄の古称。
折り(おり)- 横に長く二つ折りにした料紙。連歌・連句に用いた。

またこの所を行きて見れば、惣髪の生えし罪人を、火の車に打乗せて、から/\と谷戸飛ばせて引きずり来る。また鬼ども請け取り引っ立て行き、黒金の牢へ打ち込みて、釼にて外より差し返して責めるなり。仁田恐しきこれを尋ね申せば、また浅間仰せけるは、あれこそ遠江国柚戸の宮の神主なり。神に香花を捧げず、祭礼をも勤めず、神の社領を貪り、妻子を育(やしな)い、その懸りをおくらぬものなり。浅間札、守り御符も出さず。冥利少しも知らず。我侭不道者なり。今の苦しみを請けるなり。神を敬威増詣、慮(おもい)に叶い、後世の艱を知るべし、と大菩薩能々仰せける。

浅間大菩薩は、似非坊主、似非神主には特に厳しい。末法の世に入り、そういう族が数多く居たのであろう。

  
 

「富士の人穴物語」の解読を続ける。(12)

また先へ行(めぐ)るれば、舌を二尋(ふたひろ)ばかり抜き出して、歎き叫ぶ罪人あり。是は娑婆に有りし時の人が地獄の事を語れば、地獄は有るやら無いやら、見て来る者もなしと、色々大事のことを云い乱し、疑ぐり深き者なり。人がよき事を云わば尋ねて聞き、悪事を云わば耳を塞ぎて聞くべからず、と浅間仰せける。

急ぎてここへ行(めぐ)りて見れば、衣を綏(ひも)に巻き、無間の鐘の端を這い廻る法師あり。既に踏みはずして落るも有り。これは娑婆にて身を悪く持ち、田畑ども作らず、または博奕を数寄(すき)、親の命は終りて後、坊主と成り、仮名の壱つも知らずして、もの知り顔をして仏法に入るとも、海の魚の海に住みながら、汐の差引を知らぬごとくなり。人目をくらまし、当座の事ばかりにて、後生の事を夢々知らず。ものごと胡乱にて、我ままに振るまい、部屋坊を持ちては奢りなどして、あちこちと彷徨いし坊主なりとぞ仰せける。
無間の鐘(むげんのかね)- 静岡県、佐夜の中山にあった曹洞宗の観音寺の鐘。この鐘をつくと現世では金持ちになるが、来世で無間地獄に落ちるという。
胡乱(うろん)- 確かでないこと。真実かどうか疑わしいこと。また、そのさま。

また傍らを見るに、瓔珞、花錺りの籏をさゝせて、吹く風にひらめかし、隅々に鈴を連ねし玉輿に乗りて、女房通りける。天女たち、各様凝らして連らなり、極楽へ赴くなり。
瓔珞(ようらく)- 珠玉を連ねた首飾りや腕輪。
各様(かくよう)- それぞれに違ったようすであること。さまざま。

仁田四郎、ここを尋ね申すに、あれは常陸と奥州の境、岩城の藁田郡植田村と云う所の、さる者の女房なり。福貴の家に生れても終に奢らず、貧しきなる人を忘れず、中にも五賦まで持ち、三宝を常に信心に、心に慈悲を第一とするなり。寒(ごごえ)る者には衣装を着せ、空腹ものには喰物を取って、仏の御前に香を盛り、花をさゝげ、念仏題目を大切に念じ、法事供養に施行を引き、後生を大事と思いし女なり。今生の節は一日/\と過し語りしなり。長き後の世の罪を知るべし、今の先立ちを見て、我が心を悟れ。夢のまた夢事に露の命なるぞ、と大菩薩仰せける。

ここも過ぎ行きて見れば、美しき色衣を着たる坊主どもを、鬼ども四方八方へ引き張り、火に焙(あぶ)る所あり。これは娑婆にてよき位の坊主なり。よき寺を持ちて、人の志を受けて、仏に頂奉を致し、ただ人の志無しとばかり云う。御経、陀羅尼も読まず、人の志厚く請けしものなり。俗には奢りたる坊主、死ねば焼きて油を取るなり。能々人々に語り聞かせよと大菩薩仰せける。
陀羅尼(だらに)- 梵文を翻訳しないままで唱えるもので、不思議な力をもつものと信じられる比較的長文の呪文。

 
 

「富士の人穴物語」の解読を続ける。(13)

またここも過ぎ行きて見るに、罪人の口を縫い塞ぎて、また引き裂き/\するなり。また脇より血汐の熱き湯を汲み入れるなり。御湯(みゆ)を呑もうとすれば、鬼ども鉄棒にて打擲、責めるなり。これは娑婆にて酒を呑み過ぎし。大事を忘れ、また酒を好みて、酒の上で物事悪くしたる者どもなり。とかく大酒、すべからず。悪く振る舞いすべからず。後生の障りとなり。罪深き事、あの如しと仰せける。

また先を見れは、罪人の両の目を、錐にて押し貫き、苛(さいな)まれる事、幾千万と限りなし。これは娑婆にて、人の目を闇(くら)まし、悪き物を売り付け、人の物を盗み隠し、空事ばかり言いし者なり。御題目や御念仏の一返も申すものは、三界の罪を憾(うら)み作りて、作る罪は逃れ難し。経の一字なりとも読みて、僅かの罪を逃れべしとぞ、浅間仰せける。
三界(さんがい)-(仏)一切の衆生が生死流転する迷いの世界。

また向うを見れば、血の池なり。逆さに虚空に上り、また落ちるを見るに、皆々若き女なり。あれは子を産むとて死にたる女なり。宛(さながら)朝に念仏題目も唱えられず、思いを残し死せし科(とが)なり。これは観音経提婆品にて、七枚塔婆を立て供養すべし。この苦しみを逃れるなり、と仰せける。
提婆品(たいばほん)- 提婆達多品。法華経二十八品中の第一二品。悪人成仏・女人成仏などを説く。

またまた女の月の障り有るとき、腹をあぶるべからず。三宝を汚し、荒神仏を汚せば、この世にては崇りをなし、死しては無間地獄に落ちるなり。よくよく心得べし、と大菩薩仰せける。

またここに罪人を大雪隠所へ縛縲にて打ち込みける。冰(こおり)のきらめく池なり。荒けし冷たしと悲しむなり。これは人の(汚れにて三文字読めず)てはぎ取る人に難義を掛しものなり。この苦を請ける事、五十からが程なり。
縛縲(ばくるい)- 捕縛のための縄。

またこの所に美しき尼法眼どもあり。腰骨に釘を打ち、目鼻を血を流し、おめき悲しむなり。これは若き時、鼻の先の思案にて、法眼と成り、後に後悔して男を持ち、また子を持ちたる尼なり。法眼とならば心の堅め肝要なりと仰せけるなり。またうしとらを見るに、是も腰骨釘を打れるなり。これは娑婆にて定める男より外に男を持ち、その男の数に釘を打れるなり。かりそめにも大事なり。能くこれを語れと大菩薩仰せける。
おめき(喚き)- 大声で叫ぶこと。わめき。

 

「富士の人穴物語」の解読を続ける。(14)

また先を見れば、十二一重を着たる女、岩の上に立ちながら、腹をば鬼犬取り巻きて、喰い捌(やぶ)り/\するなり。骨ばかり罷り、涙叫ぶなり。これ娑婆にて君傾城の流を立て、万里を貪り惑わさば、僧、法印を落ち迷わせて、顔を晒し、人によく思わせんと思いたるなり。必ず君傾城立つ事なかれ。罪深いものなり、と浅間仰せける。
君傾城(きみけいせい)- 遊女。遊君。
法印(ほういん)- 中世以降、僧に準じて医師・絵師・儒者・仏師・連歌師などに対して与えられた称号。
艱(かん)- 難しくて動きがとれないこと。難儀。

また先へ行きて見れば、顔ばかり火焔の燃えるおきの中へ差入れて、焼け焙るゝなり。これ娑婆にて飯を盛る時、人が来れば、人が来ると思う限りの内へ、顔を入れ持てなす。出し役と思いし女房なり。かようの苦を請けるなり。喰い物喰わせずとも、人の来る時は茶も湯で呑ませ、愛敬あるものなり、と仰せける。
おき(熾)- おきび(熾火)。火勢が盛んで赤く熱した炭火。おこし火。
愛敬(あいぎょう)- 相手への優しい思いやりがあること。

また次に見れば、女の髪の毛百丈ばかり延び上り、髪のうち火焔とさつ/\燃え上り、娑婆が人の髪の毛の長き浦山、我が髪を撫でさすり、それに罪作りものなり、これもこれ、罪深いものと知るべし、と仰せける。

また先を見れば、これも女の髪、頭へ、上にて釘と成る。透間なく立つなり。痛や/\と叫ぶなり。これは我が髪の毛落ちるを悲しみ、そればかりに罪作りたる女なり。嗜むものと大菩薩仰せける。ここも過ぎ行きて見れば、子の一人も持たざる女は、不生女(うまずめ)とて、烙(やく)まで、竹の根を掘る指も無くて、山芋を掘らするなり。これは子供のかわゆい事を知らず、人の子に荒く当り、人の子を貰い育立てながら、その子を憎み、うまい物も我ばかり喰い、終りは申し次ぐ子の一人もなく、野辺の送り淋しく、茶湯香花、年季問うものなし。の恩を思い、子孫大事と思うべし、と浅間大菩薩仰せけるなり。
嗜む(たしなむ)- 自分のおこないに気をつける。つつしむ。
茶湯(ちゃとう)- 仏前・霊前に供える湯茶。また、湯茶を供えること。
香花(こうばな)- 仏前に供える香と花。こうげ。
釈(しゃく)-釈迦(しゃか)のこと。

また少し先を見れば、罪人を黒金の串を差いて、焙る事限りなし。これは親にてもなき人に、育立られ、その恩を送らずして、我壱人にて育立ちし様に思い、その親を捨てたる者、死なばあの如くの苦を請け、焼き焙り人となりたる。いよいよ肉を焼かれるなり。尋ねても養ひ親の恩送るべし、と大菩薩仰せける。



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