Bill Gatesの講演会 1980年5月10日
2019年5月7日記
40年前、会社の有給休暇を取ってこんな講演会に参加していた。
Bill Gatesは25歳でCPUの8080が話題になっていた。
Bill Gatesの講演会 1980年5月10日

(以下Wikipediaより引用)
MS-DOSの開発[編集]
1980年、IBMは、Apple IIの成功を見て、パーソナルコンピュータ市場への本格参入をはかることにし、IBM PCの開発に乗り出した。短期に開発することを目指していたため、OSについては自社開発をあきらめ、既存のOSを採用・改良することにした。当時、多くのパーソナルコンピュータのOSとして普及していたのは、ゲイリー・キルドールによって創業されたデジタルリサーチ (Digital Research) が開発したCP/Mだったが、OS採用をめぐるIBMとデジタルリサーチとの交渉は不調に終わった。
春の山歩き 2019年4月22日
春の山歩き 2019年4月22日 午後三時頃
山菜採りに分け入ったのだが、陽気に誘われて、つい藪を掻き分けて山頂をめざした。
頂上には三角点が見つかり、直ぐ近くに青空を見上げるようにコブシの花が咲いていた。
西の方は、雑木が生い茂って黒姫山を見渡すのが難しい。
赤い椿の花が咲いている斜面に降りると、猪の掘り返した穴があちこち見られた。







山桜
2019年4月18日記
山桜?
2013年の4月に、オオシマザクラの苗木を20本ほど買って池の周りに植えた。
その中に、一本だけ様子の違うものがあり、今年の春、こんな花を咲かせている。
オオシマザクラはまだ蕾の状態なので、別の種類が紛れ込んだものらしい。
たぶん、山桜かと思うが確かかどうかあまり自信はない。

こちらは、一昨年植えたオカメ桜、イギリス人が交配した品種で大木にはならないという。

春の大雪
2019/04/02
春の大雪
昨日は雪の消えた湿地に水芭蕉が咲いていたり、池の周りには白鷺が来て獲物を狙っていたりして、春の気分を感じたが、今朝は一転して春の大雪。





夕方には積雪15センチほど


アカガエルの卵
2019/3/25
アカガエルの卵
水をはった田んぼに無数のアカガエルの卵、この段階ではニホンアカガエルかヤマアカガエルかの判別はむずかしいらしい。2019年3月25日撮影


鳴き声
2019/4/18 撮影
気味悪いほど多くのお玉杓子が孵化してひしめき合っています。
「蚕養由来」 寛政十二年(1800年)の写本
2019/4/29追記
「蚕養由来」 寛政十二年(1800年)の写本
佐藤松風の残した蔵書の中にこんな写本があった。
寛政十二年は西暦1800年。
最近、皇室関連の報道で養蚕のことが頻出するので注目。


岡田村
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E6%9D%91_(%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536079
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko04/bunko04_00697/bunko04_00697.pdf
『戒言(かひこ)』や『庭訓往来抄』(1632年)には、養蚕の起源として「金色姫の物語」がある。こんな書き出しである。
『広益俗説弁』ではこれを俗説と指摘しているが、蚕がインド経由であるという考えが広く庶民に伝承されていたという意味で、やはり非公式な伝播ルートだったのではないかと思われるので、その要約を引用しておこう。
欽明天皇の御宇にはじめて 蚕養 こかい ある。其由来を詳しく尋るに、むかし北天竺宮に 旧仲国 きうちうこく と云国有。其国に王おはします。その御名を 霖夷 りんい 大王と申奉り御后を 光契 くおうけい 夫人と申也。又御むすめ一人まします御名を 金色 こんしょく 皇后と申しき。」
『広益俗説弁』ではこれを俗説と指摘しているが、蚕がインド経由であるという考えが広く庶民に伝承されていたという意味で、やはり非公式な伝播ルートだったのではないかと思われるので、その要約を引用しておこう。
ある時、金色姫の母君である后は、重い病にかかり亡くなった。姫は悲しみの月日を送っていたが、王はやがて後妻の后を迎える。後妻の継母は、金色姫をうとみ、亡きものにしようと考えて、次々と好計を企むのである。
まず最初の事件である。その国の近くには、師子吼(ししく)山という、人も通わぬ深山があり、獅子王というけだものが、多数すんでいた。後妻の后は獄人に命じて、この山へ姫を捨てさせてしまった。ところが獅子は姫に危害を加えるどころか、姫の面倒をみる。後になって、獅子は姫を背にのせ無事宮殿へ送り届けた、という筋書である。
二番目は、はるか遠い辺境の地の鷹群山へ、姫を捨てた話である。そこは鷲・熊・鷹が多く、山の名称もそれに由来していたほどのところである。ところがある日、帝が鷹を討つために遣わした家来たちが、思いがけず山中で姫の姿を見つけ、鷹を捕らずに姫を都へ連れて帰ったのである。
三番目は、陸地からはるか彼方の、海眼山という草木も育たぬ遠島へ、姫を流してしまった。このときは、風で流された釣り船が島に漂着し、姫を見つけて哀れに思い、船にのせて帰ってきた。
四番目の話。王が留守にしたとき、継母の后は役人に金を握らせて、清涼殿の小庭に深い穴を掘らせ、姫を埋めてしまった。しかし還御した王に、姫の行方を告げる者はいなかった。100日ばかりの後、清涼殿の小庭で、地中から光がさしてきたので、急いでそこを掘ったところ、金色姫が現われ、救い出すことができた。
そこで、この国に住んでいて憂き目をみるよりは……、と考えた王は、桑の木で作ったうつぼ船に姫をのせ、沖へと押し出してしまった。
うつぼ船は蒼波万里をしのぎ、何年もかかって、ひたちの国の、とよらの湊に近づいた。釣りに出ていた浦人の権太夫が、うつぼ船の姫を発見する。権太夫夫妻は姫の面倒をみるのであるが、姫はやがて病に倒れ死んでしまう。ある晩、この夫婦は姫を夢に見る。そこで夫婦は早速、姫を納めた柩(ひつぎ)を開いてみたところ、姫は消えており、そこには小虫がいた。これに桑の葉を与えたところ、虫どもは喜んで食べ、次第に成長した。ただし途中で四回 (姫の受難の回数) ほど休んで繭を作った、というのである。
そのころ、筑波山に一人の仙人がおり、この繭を練って綿 (真綿であろう) というものにし、人の寒さを防いだといわれる。綿糸はこのときから始まったし、またその後、絹綾なども作られるようになった、と述べてある。
(伊藤智夫『絹I ものと人間の文化史』pp.15-17)






