佐藤武久のブログ 「日本・モンゴル往来日記」 -170ページ目

シャンパン風ドブロク

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2008年12月28日

24日に仕込んだドブロクを今朝絞って三矢サイダーのペットボトルに詰めました。
ラーマンどんぶりに入った酒粕はもっときつく絞ればあと一本分くらいはありそうですが甘酒にすることにします。
まだ醗酵が進んでいるのでペットボトルのキャップは少しずつ開かないと泡になって溢れてしまうので注意が必要です。
出来が良かったのに気を良くしてラベルもデザインし、銘柄は「ほろ酔い星」と名付けました。

作り方で参考にしたのは次のホームページ
「ペットボトルで作る炭酸系簡単どぶろくの作り方」 武富純一
http://www.osk.3web.ne.jp/~jetplan/takejun/doburoku.htm

ドブロクについてもっと詳しく知りたい場合は次の本がお勧めです。
「ドブロクをつくろう」 前田俊彦
農文協
http://www.atc.ne.jp/seikindo/html/doburokuwo.htm

テムジン小屋のバッテリ充電装置

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2008年9月8日

日本は9月になってから雨の多い日が続いています。
畑の小屋に太陽電池を付けてニュースや音楽を聴けるようにしました。
中古の太陽電池パネルを使っているので発電量はモンゴルの田舎の標準的なものの五分の一程度かと思います。

CD-ROM「元気なモンゴル 特別限定版」

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2008年8月7日

大相撲のモンゴル巡業を記念して出版するマルチメディアCD-ROM
「元気なモンゴル」の2008年特別限定版のカバーデザインが決まりました。
モデルのアリョーナは今年7歳になりました。

農業メモ (1993年1月7日) 農業と工業

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2008年12月9日

会社(三洋電機 東京製作所)を退職する二週間前にこんな農業メモをノートに書いていたのをすっかり忘れていました。


1993.01.07(1993.01.21 51歳の誕生日に早期定年退職)

・食料自給率
 フランス  120%
 イギリス   70%
 日本     30%(1993)
# 自賄(じまかない)

・欠勤率
 ドイツ   8.4%
 フランス  8.5%
日本  0.5%

・緑の生活
 オークヴィレッジ代表 稲本正 http://doraku.asahi.com/hito/runner/070104_02.html
 カントリー・ライフのすすめ 藤門 弘
 富良野 倉本 聡
 現代農業 農文協 
 すばらしき田舎暮らし 石井慎二
 山岸会

・国民皆二反(600坪)百姓
 帰農令 (昨日霊)
 小農 (笑納、小脳)
 一坪図書館
 畜産アウシュビッツ
 工業製品の輸出に血道をあげる必要はない。

・つまり、食べるに事欠いた人たちが、農業に絶望して工業を始めたわけです。
 これに対して、カトリックの国々では、あまり工業が発達していない。しかし、それは彼らの 頭の程度が悪いからではなくて、常に満足した生活をしているからなのです。(出典不明)

・1986年の夏頃より、一方的な農業攻撃 (1993.02.01)
 耕さざる人間が寄ってたかって耕す人間を「バカだ、アホーだ、税金ドロボーだ」とこき下ろす風潮(「百姓宣言」 高橋良蔵 無明舎出版)

・どの山を歩いても杉と檜の人工林一色に変わってしまった。
(「昭和林業私史」宇江敏勝 農文協)

睡蓮の池に初氷

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2008年12月20日

池に氷が張る前に初雪が振ったりしていたのですが今朝は快晴で睡蓮の池に初氷が張りました。
庭の池には紅白一対の金魚が住んでいますが、この寒さの中でも泳ぎまわっています。
鯉は水温が8度以下になると活動が鈍ると聞いていたのですがこの魚は例外のようです。
崑崙山の山中の神仙は太陽の光を取り込んでエネルギーにする術を修得しているそうですが、この魚たちもそんな術を心得ているのかもしれません。
秋の終わり頃、山からホースで引いている水が落ち葉が詰まって止まってしまった晩に一尺以上もあった黒鯉が狸かハクビシンに食われてしまったのにこの10センチそこそこの魚が生き延びたのです。
この一年以上、山の水を流しているだけで市販の餌を与えたことはありません。

清酒 田中角栄

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2008年12月26日

十日町市のシネマパラダイス http://www.t-cinepara.com/
に北野武監督の「アキレスと亀」http://www.office-kitano.co.jp/akiresu/ を見に行きました。
映画が終った頃は日も暮れて小雪混じりの風も強く雷もなっていましたが近くの小嶋屋で天ぷらそばで夕食を摂り、秘蔵の清酒「田中角栄」を買って帰りました。
周恩来と乾杯をしたときに使った新潟の吉川酒造の酒だそうです。
西山町の田中角栄記念館http://www.tanaka-zaidan.net/index.html
の売店は冬季は閉店なので近くで入手するのはむずかしいものです。

落し板で冬囲い

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2008年12月12日

収穫した百匁柿を洗って縁側に干してあります。
わずかな冬日もありがたいのですが、いつ雪になるか分らないので落し板を嵌めることにしました。
家の中は暗くなりますが、何故か落ち着きます。
ウサギのように春まで冬眠でもする気分になります。

今年四度目の雪

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2008年12月27日

夕べから今年4度目の雪が降りました。
車庫に入っていた超軽量飛行機(トライク型)を集落の共同作業場に保管してもらうことにしました。
早くエステマを車庫に格納しないと雪の中に埋もれてしまいます。
午後から雪の晴れ間に移動することにします。


遠い故郷の空はいつも重たい鉛色
思いは巡る幼い日ごろ


春日八郎だったかな?

この実何の実?

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2008年12月24日


この実何の実、気になる実
見たこともない実ですから
見たこともない花が咲くでしょう


杉の木に絡まりついていた蔓性の草の実で、地元のお年よりも知らない実でした。
どなたか詳しい方 教えを乞う


参考資料(2009年2月25日追記)
初音ミクの「日立の樹」: http://www.youtube.com/watch?v=e4SY58hWoQs&feature=related

「パックス・モンゴリカ」 (1)チンギス・ハンの憲法(Ih Zasag)

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2008年12月27日記

「パックス・モンゴリカ」(1)チンギス・ハンの憲法(Ih Zasag)

マルチメディアCD-ROM「元気なモンゴル 2006年版」のメニュー、「歴史-モンゴル帝国」より抜粋

広大な帝国の統治機構を確立し、国家権力を強化し中央集権化する最初のステップとして、チンギス・ハーンは憲法(Ih Zasag)を発布しました。
この憲法は、牧夫を特定の貴族に配属させて、彼らが1つの部隊から別の部隊に移動するのを禁じました。
国家運営は、軍事的民主主義の原理に基礎を置いていました。
ハーンの宮廷では、毎日、指導者と特別に重要な賢者による会議が開かれました。
極端に重要な問題、例えば、新しいハーンの選挙や戦争と平和の問題が議論され、大クリルタイで決定されました。
法律に従って審議して、判決を下す責任を担う国家裁判官(zargach)のポストは、チンギス・ハーンの改革で導入された新制度のうちのひとつでした。
社会の軍事行政機構を法的に強化すると、チンギス・ハーンは、鉄の規律を持ち、最新の武器を装備した非常に強力な軍隊の創設へ向けて注力しました。
モンゴル帝国の兵器庫は、いろいろな目的の弓矢だけでなく、頑強な壁を破壊する強力な軍需品や投石器や放火装置のような高品質軍事器材も収納していました。
しかし、厳格な法律と軍事力は、チンギス・ハーンが統一国家の力を強化するために始めた唯一の手段ではありませんでした。

『帝国は馬に乗って獲得したけれども、国の運営は馬に乗ってはできない』という言葉通りにチンギス・ハーンは行動しました。
何にも増して重要なのは知識であり、教育でした。
征服された国の著名な学者と民間行政の経験豊かな官僚が、顧問や相談役として起用されました。
そして、チンギス・ハーンは彼の親戚や役人に読み書きを学ばせました。
明らかに、有能で経験豊かな人民は、国家行政に広く雇用されました。
例えば、ナイマン部族の役人であったタタトゥンガ(Tatatunga)、契丹人学者の耶律阿海(Yelyui Chu-tsai)は、チンギス・ハーンの宮廷に仕えました。

チンギス・ハーンが支配した社会のもう一つの際立った特徴は、その道徳でした。
窃盗と詐欺は、最も重大な犯罪的行為と考えられました。
1246年にモンゴルを訪問した一人のヨーロッパ人旅行者は次のように書いています。
『モンゴルには窃盗、喧嘩、取っ組み合いや殺人がない。彼らは互いに人なつっこく人に接し、口論になることは滅多にない。そして、強盗と窃盗を彼らは知らなかった』
ペルシャの歴史家ラシッド・アド・ディンによると、チンギス・ハーンは、次のように語ったといいます。
『私の権威に従った大草原地帯の人民の間では、窃盗、略奪と密通は、日常茶飯事であった。息子は父に従わなかった。若者は年寄りを尊敬しなかった。夫は妻を信用しなかった。妻は夫を無視した。金持ちは貧乏人を助けなかった。年若い者は目上の者を尊敬しなかった。このように、厚かましい違反行為と限りないわがままが至る所に蔓延していた。私は、こういうことに終止符を打って、彼らの間に法と秩序を確立した』

モンゴル人部族を一つの規則の下に統一し、中央集権化した国家が出現させたことは、モンゴルの歴史の中で大きな意義を持つものでした。
そして、それは新しい社会秩序の封建主義を持つ種族民制度を定着させ、種族の分裂に終止符を打ち、社会の生産力の発展、モンゴル国家の形成とその文化の生長を促しました。