佐藤武久のブログ 「日本・モンゴル往来日記」 -168ページ目

呼び板

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2009年1月5日記


従兄の家の玄関に啄木鳥の形の飾り物が付いたので何かと思ったら呼びリンの代わりに使うのだそうだ。
指で尻尾を押すとばねの力で嘴が木を叩くという仕掛けだ。
これが結構大きな音がして家の奥まで聞こえるそうだ。
そこで私にもアイデアがひらめいた。
我が家では子供たちが理科の授業で使ったインターホンやベルの教材を捨てずに取っておいて、それを玄関において呼び鈴として使っている(写真1)。
ところが、母は耳が遠くなっているのでテレビの音が大きいと聞き漏らすらしいし、電池が切れていて宅配便のお兄さんが留守だとあきらめて帰ったりすることが二度三度あった。
建築廃材に混じっていた杉の木の輪切りを流用したこの仕掛け(写真2)。
板厚が暑いほど高い音がし、台所の奥にいても良く聞こえる。
一般に呼び板と呼ぶようだ。
検索するとこんな製品もあるにはある(写真3)。
「渡し場の船よび板」なんて風情のある風景も見つかった(写真4)。
今でも上州の利根川沿いには残っているのかな?
それとも「おーい、船方さーん、船方さーんよー」などと三波春夫のように大声で叫んだのかな。
それにしても何にでも安易に電気を使うのは考えものだ。
地元新潟では地震の後、電気を使わない石油ストーブがよく売れるそうだ。
藤村靖之さん http://www.flintstone.co.jp/20060924.html 
の提唱する「非電化元年」以来今年で何年目だろう。
モンゴルでも活躍されています。

ダダル紀行2003 韃靼海峡

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2003年8月23日

2003年の初秋にチンギスハーンの生れ故郷ダダル村に旅行した帰り道、オノン河のほとりで夕食を取りました。
女性陣が食事の用意をしている間、ルアーで釣りをしました。
ところが、糸の結び方が悪かったので15センチほどのルアーが糸を離れて川面にぷかぷか浮かんで流れ出しました。岸のほうに寄って来るように祈るような気持ちでゆったりした流れを追い続けていたのですがついに手に届くところには流れてきませんでした。
私の次男坊の康久が手作りした貴重なルアーだったので川下に見えなくなるまで名残を惜しんで見送りました。
もし、無事に流れ続ければ、やがてアムール河に合流し、最後は韃靼(だったん)海峡(間宮海峡の旧称)に流れ出るはずです。おそらく二ヶ月くらいかかると思います。

テレビで3000キロも旅をする蝶の話をしています。
昔読んだこんな詩を思い出しています。

「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡つて行つた」

注:「てふてふ」は旧仮名使いで「蝶」のことです。韃靼はモンゴル族の総

大正7年の天変地異

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2009年1月7日記

山が池になり、池が山になり (佐藤達太郎著「達どん、東京へ行く」より抜粋)

 南鯖石村字小清水は、ちょうど旅順港のように、両側からいっぱいに迫った山の間を抜けたところに、小じんまりとひらけた村だった。ラジオもなく、新聞は二日に一度来るか来ないか。郵便も似たようなもの。近頃、吉幾三という歌手が歌っていた「おら、こんな村いやだ・・・・・・・」という流行歌があったが、あの歌詞そのままの村だった。
 私が鯖石尋常小学校に入学した大正四年だったと思うが、この村に一大天変地異が起こった。それは、まさに天変地異そのものだった。一ヶ月間にわたって継続的に続いた地滑りによって山が池になり、池のあったところに山が出現するという激しいものだった。
 寝ていると、ミシッ、ミシッという音がどこからともなくしてくる。私の家は大丈夫だったが、ほとんどの家の柱にまでひび割れが入りはじめる。村の古老たちもかって経験したことのない自然の猛威に、ただただ、鯖石神社に寄り集まって、みんなで無事を祈るより手がない。その神社の神殿までミシミシいいはじめる。

 神社の境内の二畳ほどもあろうかというくらい太い杉の木に、大きな亀裂が走るころになると、いよいよ駐在所も避難命令を出し、消防が家の取り壊し作業をはじめた。
 しかし、ツァは、わが家の下の岩盤は頑丈だから大丈夫といいはって、非難命令に従わなかった。警察の連中が来ても、隠れてしまっていないものだからどいしようもない。消防も、一家の主が了承しないことには、家を取り壊すわけにもゆかない。
 ツァの判断は正しかった。一ヶ月が過ぎ、地形に大変動が起き、ほとんどの家が壊滅的打撃を受けたのに、わが家だけはびくともしていなかった。緩やかに、しかも長い時間をかけての地滑りだっただけに、その結果の大きさの割には、怪我人や死人などが一切なかったのが、不幸中のさいわいだった。(EOF)

注)「鯖石神社再建55年誌」には大正7年5月と記されているので大正4年は著者の記憶違いと思われる。地滑りの写真は同誌より転載

七草

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2009年1月6日

日本では1月7日は七草(ななくさ) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89
と言って7種類の野菜を入れたお粥を食べる習慣があります。
中国や韓国にもそのような習慣があるようですがモンゴルではどうですか?
追記:写真は7日朝のわが家の七草粥です。

道元(どうげん) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%83 の言葉:粥有十利

1: 顔色を良くする
2: 力が漲る
3: 寿命を延ばす
4: 気分が良くなる
5: 言葉が爽やかになる
6: 便秘にならない
7: 風邪を引かない
8: 腹が一杯になる
9: 喉の渇きも癒す
10:腹の調子が良くなる

昔の人は自然と丁寧に応対していたなと思う。

会社を辞めてからこの十数年風邪を引いて寝込んだ記憶がない。
サラリーマン時代、エンジニア(上司にはお前はエンジニアでなくてヘンジニアだと言われていたが)として働いていた頃は、仕事が楽しくて給料もいくらもらっているかも知らなかったし、残業もタダ働きでも平気だった。
管理職に祭り上げられてからよく風邪を引くようになって会社を休む日が多くなった。寝ていてもよく寝汗をかいた。もちろん、仮病らしきものも何日かあっただろう。

早朝から始まる部長会議というのが一番つらかった。たばこの煙がもうもうと立ち込める会議室で延々と嘘っぽいリストラ計画を議論してもガンガンと頭痛がしてほとんどうわの空だった。
51歳の誕生日に早期定年退職をした。
定年まで勤めた人には感謝状が出たが、私には出なかった。そんなものがほしかったわけではないが、「ダブル・スタンダード」という言葉があることを後で知った。

注:何故か今日は「である調」になってしまいました。

遅ればせながらご挨拶

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2009年1月4日

いつも寝てばかりだと思うなよ。
俺の目は節穴じゃない!

タリアット村にて

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2008年7月16日

開高健http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E9%AB%98%E5%81%A5
のイトウ釣りで名を知られたタリアット村のゴアンズ(軽食堂)でたまたま一緒に食事をしていたスイス人の旅行者です。
このリカンベントhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88
と呼ぶ変わった自転車でウランバートルからここまで来てフブスグル湖まで行くのだそうです。
ここのゴアンズに自転車を預け、故障した部品を買いに一度ウランバートルに戻り帰ってきたところ、預けておいた自転車をモンゴル人の誰かがいじって部品が紛失したようでトラブルになっていました。
警察に届け出ると憤慨していましたが私たちが仲介に入りなんとか解決してこの記念写真を撮りました。

柚子湯

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2008年12月21日

今日は冬至(とうじ)です。
北半球では昼が最も短く、夜が最も長い日です。
日本では、この日に柚子湯(ゆずゆ)に入り、冬至粥(小豆粥)や南瓜(かぼちゃ)を食べると風邪をひかないと言われています。
柚子湯とは柚子(ユズ)を浮かべた風呂のことです。(写真1)
我が家でもお隣からお裾分けの柚子で今夜は柚子湯です。

明けましておめでとうございます

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2009年1月1日

明けましておめでとうございます。

30日にようやく作り終えた門松に大晦日に降った雪が積もりました。
竹は墓場の竹藪から切り出したもので去年よりはかなり小さめの仕上がりとなりました。
竹の先端部分は車庫の入り口に立ててマルチカラーのLEDイルミネーションを飾り付けることにしました。今年の新趣向です。

折り紙 雪の結晶

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2008年12月29日

江戸時代に越後国 塩沢の人、鈴木牧之
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E7%89%A7%E4%B9%8Bの書いた「北越雪譜」に雪の結晶が多く紹介されています。
また、十日町博物館には拡大鏡でさまざまな結晶の模様を覗いてみることが出来ます。
折紙で雪の結晶の作り方を紹介した切抜きがあったので二時間ほど遊んでしまいました。
六角形という制限があるものの無限の模様が出来るわけで教材として面白いと思います。

菊作り

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2008年11月23日

皆さん こんばんわ
この年齢になるまで乗馬を除いて親父と同じ趣味を持てずにいますが、親父の菊つくりの精神と技術は従兄の冨二夫さん(親父の姉トクさんの息子)に受け継がれています。
夕べは久しぶりにおばあちゃんと冨二夫さん夫婦、三条から来た弟勇二で夏美の作ったほうとう鍋を囲みにぎやかな夕食でした。