夢幻の男 | 近藤サト オフィシャルブログ「ベルベットフィール」Powered by Ameba

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『目前心後』
世阿弥の書いた『花鏡』にある言葉です。
心を後ろに置け、とは常に客観的に自分を見る目、『離見の見』を心得よ、ということです。
風姿花伝を含め、世阿弥の芸能理論には芸術全てに通じる教えがあります。

世阿弥の残した数々の脚本には、夢幻能という現世のものではない者共が出現する作品が沢山あります。
夢幻、その言葉にピタリとはまる実在した人物がいます。

世阿弥の実子、元雅です。

元雅は天才・世阿弥の後継者にして、その父が自分のみならず、祖父・観阿弥をも超える、と評した人物です。

しかし、元雅は32歳くらいで亡くなっています。その死は南北朝の政争に巻き込まれた末の暗殺との見方が大勢です。

元雅の残した作品は、隅田川、弱法師、歌占、吉野山、など多くありませんが、近年の研究で藤戸、経盛、維盛、俊寛などもそうではないかと言われ改めて功績や才能が見直されています。

元雅の作品は、親と子の別れを扱ったものが多く見られ、一見、どれも哀しく暗い物語です。
しかし、救いようのない悲しみを描くことで元雅は人間の奥底にひっそりと咲く『まことの花』を表現したかったのではないかと思うのです。

『時分の花 まことの花』
は世阿弥の言葉ですが、世阿弥は生来とても明るい人間で、人生を肯定しながら生きていたように思うのです。
しかし、元雅は自らの早逝を予期していたのか、現世で生きることを常に『離見』していたのではないか。

『隅田川』の演出で世阿弥、元雅父子が対立した有名な話があります。

子供を人さらいにさらわれ、狂女となった母親が京の都からはるばる東の国、隅田川までたどり着く。
その隅田川の渡し船で、偶然前年に我が子が死んだことを知る。
母親は、1年前子供をみとった東の人々の念仏の中で、隅田川のほとりの小さな土饅頭に縋り付く。
すると、どこからか子供の声がする。

それこそ、我が子の声。


ここで作者、元雅は子供役の役者を登場させる。しかし、世阿弥は幻なのだから登場させぬほうが良いという。このやりとりは残されていて、世阿弥は『元雅は何も分かっちゃおらん』みたいなことを言っています。

現代では双方の演出で上演されているようですが皆様は、どちらが良いと思いますか?

私は元雅案です。

狂女となった母親は正気に戻って後に、幻の我が子に再開します。その『現実』は救いようがなく哀しい現実です。
しかし、子供が現れなかったら悲しみは母親のものだけになってしまいます。
子供の出現で観客も同じ現実を生き、翌日その土饅頭の脇で母親とともに観客もまた息絶えるのです。

稀代の天才・元雅は『夢幻の男』としてずっと興味の尽きない芸術家です。

元雅について、梅原猛氏著『元雅の悲劇』はおすすめ図書です。